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古碧山龍巌寺|渋谷区神宮前にある臨済宗南禅寺派寺院

龍巌寺の概要

臨済宗南禅寺派寺院の龍巌寺は、古碧山と号します。龍巌寺は、名主半右衛門が居宅を捨てて一寺となし、喚室(元和8年1622年寂)を開山に迎えて寛永7年(1630)創建したといいます。当寺の大師堂は、熊野神社の別当浄性院が神仏分離令により廃寺となったことから移したもので御府内八十八ヶ所霊場9番です。

龍巌寺
龍巌寺の概要
山号 古碧山
院号 -
寺号 龍巌寺
本尊 釈迦如来像
宗派 臨済宗南禅寺派
住所 渋谷区神宮前2-3-8
葬儀・墓地 -
備考 -



龍巌寺の縁起

龍巌寺は、名主半右衛門が居宅を捨てて一寺となし、喚室(元和8年1622年寂)を開山に迎えて寛永7年(1630)創建したといいます。喚室(峻翁令山禅師)は武蔵國秩父郡出身で寂後に勅号(天皇よりの法名命名)を賜り法光円明国師と呼ばれた高僧名僧で、本山兜率山廣園寺、児玉郡威音山光厳寺、深谷常興山國済寺などを開山しています。

新編武蔵風土記稿による龍巌寺の縁起

(原宿村)龍岩寺
禅宗臨済派古碧山と號す、多磨郡由井領山田村廣園寺末、本尊釈迦、脇士文殊、普賢を安す、相傳ふ、境内昔は名主半右衛門か屋敷にて鎮守弁天社あり、側に小庵を建て喚室と云僧をして住せしめしか、慶長七年遂に宅を捨て寺とす、依て喚室を開山とすと寺傳にいへり、鐘銘に掾は、御入国以前よりの寺なりと載す、何れか是なるや喚室は元和八年十一月二十四日寂す。
辨天社。地主の神なり。
天満宮。往古は木立像なりしと、今木札に神號を記し、裏に来由を載す、其略に源義家此所にて出陣の連句を催し、社前に納む、依て句寄の天神と號すと。稲荷を合祀せり。
日吉山王社。是も神號を記せし木札の裏に、往古は當村千駄谷村境榎樹の下に勧請ありしを、寛永中当寺第三世明叟の時ここに移すと云。
圓座松。砌下にあり、囲み四尺許、根上一尺許を隔て四方へ蟠延す、大さ東西七間餘、南北六間半、其状圓坐を敷たる如くなれは此名あり、初栽せしより凡九十年に及ふと云ふ、
鐘楼。元禄十一年鋳造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)

「渋谷区史」による龍巌寺の縁起

龍岩寺(原宿七八番地)
臨済宗、山号を古碧山という。慶長年中僧喚室(元和八年十一月二十四日寂)の開基と伝えるのみで、詳でない。元禄十一年の鐘銘によれば、「東照大神君、未入都城之先、巳此寺封彊若干、官免税租、不知誰某之草剏、里民以墳寺、数罹鬱収之災、失其傳記」と見えている。また「新編武蔵風土記稿」によれば、昔は名主半右衛門の屋敷で、鎮守の弁天社があり、その側に小庵を営み、喚室という僧を住まわしめ、慶長七年に、宅を棄てゝ寺となしたのが、龍岩寺であるという。早く記録を失い、正確の事実を知ることが出来ない。江戸時代には、八王子広園寺末。境内千四百余坪。本尊釈迦如来。境内に弁天社(地主の神という)天満宮(源義家が出陣の連句を催し、社前に納めたとの伝があり、句寄の天神という。稲荷を合祀してある。また門前の坂は、義家が奥州征伐の時勢揃いをしたというので、勢揃坂と称した。)日吉山王、(もと原宿千駄谷の村境榎の大樹の下に勧請してあつたのを、寛永年中当山三世明叟の時に移したという。)鐘楼、円座の松などがあつた。円座の松は、江戸の名木の一として、特に有名である。文化十年の「十万庵遊歴雑記」によれば、「本堂の際より廻りて、庭中に至る。爰に円座松と云有り。亘り九間、根より枝迄、高サ八九寸、惣高サ二尺、其形丸く作りたれば、斯名付たり。僧房の塔側より見る所尤可なり。(中略)且庭の作意面白く、山有り、谷有り、新日暮の庭に遥増り狭しとはいへども、模様取巧みに、掃除隅々迄も行届きて、奇麗に、西北の耕地の風景を眺望する事も、千寿院よりは尤増れり」と見えている。「江戸名所図会」、「江戸名所花暦」の図によつて、昔日の偉観を偲ぶことが出来る。澁谷八幡の鎮座の松、千駄谷八幡の鈴掛の松、寂光寺の遊女の松、道玄物見の松と共に、江戸三十六名松の一つであつた。今は松も枯れて、名園の面影さえもない。殊に幕末の時代、二回の火災に逢ひ、漸次荒廃し、明治二十三年頃は、特に甚しかつたが、同三十年頃に大体の修理を了したという。
本堂の側に大師堂がある。府内八十八ヶ所九番の札所である。明治七年熊野神社の別当浄性院から移した、堂内に安置せる不動尊を目黄不動という。しかし目黄不動は、江戸川区荒川堤下最勝寺(もと本所表町)にあるのが、古来有名である。
大師堂の前に、宇賀神、即ち弁天の石像露仏がある。女面蛇体で、頭髪に鳥居を付している。久しく境内の崖の中に埋れていたのを、明治年間住職広瀬守謙氏が掘り出したものという、原宿の弁天として名高い。また庫裡裏の小庭には寛政五年正月俳人沙鷗等の建てた「春もやゝけしき調ふ月と梅」と刻した芭蕉の句碑がある。
小関三英の墓
出羽庄内の人、蘭医シーボルトの門人。有名なる蘭医。仙台藩また岸和田藩に仕えていたが、天保五年幕府の天文方に召出され、蘭書翻訳のことに従う。高野長英等と共に、尚歯会を興して、斯学の牛耳を執る。偶々天保十年世にいう所の蛮社の獄が起り華山の捕えられた時、その依頼を受けて基督の小伝を訳していたので華山の就縛の原因がこゝにあるものと誤解し、己もまた免れ難いことを信じ、五月二十三日の夜自刃した。年五十三。墓は正面に「小関三英先生墓」右側に「姪徽猷建石」裏面に「祠堂金五両知人門人」と刻してある。寺の伝によれば、本堂で自刃したという。近年史蹟に指定せられていた。(「渋谷区史」より)


龍巌寺の周辺図