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聖徳山諦聴寺|渋谷区代々木にある真宗大谷派寺院

諦聴寺の概要

真宗大谷派寺院の諦聴寺は、聖徳山と号します。僧了誉が、萬冶元年(1658)四谷に創建、その後駿河国清水への移転を経て、享保年間(1716-1735)当地へ移転したといいます。当時の木像聖徳太子立像は渋谷区有形文化財に指定されています。

諦聴寺
諦聴寺の概要
山号 聖徳山
院号 -
寺号 諦聴寺
住所 渋谷区代々木3-26-1
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



諦聴寺の縁起

諦聴寺は、僧了誉が、萬冶元年(1658)四谷に創建、その後駿河国清水への移転を経て、享保年間(1716-1735)当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による諦聴寺の縁起

諦聴寺
同宗同末(浄土真宗京都東本願寺末)正春寺内に居れり。聖徳山と号す。萬冶元年僧了誉の起立なり。古は四谷にありしが中頃駿州清水へ移り、享保年中此地へ引移せり。本尊弥陀を安す。(新編武蔵風土記稿より)

「渋谷区史」による諦聴寺の縁起

諦聴寺(代々木新町一六番地)
真宗東、山号を堀水山という。萬治元年僧了誉の起立にかゝる。東本願寺末。本尊阿彌陀如来。もと四谷にあつたが、中頃駿河国清水に移り、享保年間更に代々木正春寺の地内に移った。
按ずるに諦聴寺の起立については、異説がある。同寺の住職堀江明氏の書いた由緒書によれば、紀州和歌山専念寺の僧了誓が、四谷門外に建立し、尋で四谷堀江町、四谷新町、山谷等に移り、更に附近の旗本屋敷千五百坪を買入れて移つたのが、現在の地域であるという。また寺内の墓域には「當寺開山釋智誓、萬治元戊戌暦極月上旬五日」と刻した卵塔がある。然らば、了誓というのは、智誓の誤か、明確でない、なほ文久三年五月十七日、正春寺から幕府に呈出した由緒書によれば、諦聴寺は、正春寺が湯島三丁目にあり、専西寺と称していた頃からの寺中の子院で、開基を秀瑛という。元和六年引寺の際、諦聴寺をも代々木に移したとあり、「地中諦聴寺義を、開基秀瑛二代秀圓を相続仕来候、然ル處近年紀州和歌山専念寺了誓を東泰院御門主様御裏書有之候。太祖聖人御影何方求来候哉、右専念寺了誓之時、四ツ谷伊賀町え移轉仕候儀を更に跡形も無之事に而、則秀瑛開基致候事を、湯島専西寺天臺宗之砌之地中に聊相違無御座候」と見えている。正春諦聴兩寺間には、何事かに原因する争があつたと思われるけれども、詳かでない。今は兩寺の主張を批判すべき資料を欠くので参考として兩説を掲げておく、本文は「新編武蔵風土記稿」によつた。(「渋谷区史」より)


諦聴寺所蔵の文化財

  • 木像聖徳太子立像(渋谷区指定有形文化財)
  • 茶室花雲(渋谷区指定有形文化財)

木像聖徳太子立像

この像は、頭髪を中央で左右に振り分け、顔のつくりも明らかにしない立ちすがたで神像を思わせますが、当初は両耳辺で髪を美豆良に結い、いま見るように柄香炉を手にしていたと考えられます。風化による木のやつれが全身に見られ、両手先や香炉のほか台座も近世のものに替わっており、保存状態が良好とはいえませんが、聖徳太子の十六歳の姿を表したという孝養像にあたります。
木彫りによる太子孝養像は、鎌倉時代以降各地で盛んに造立され、なかには坐像や倚像もありますが、本像のような直立像が一般的です。そのすがたは、太子が父用命天皇の病気平癒を祈るものとされますが、中世になると浄土真宗の太子信仰と結びつき、彫像や絵像が多く作られます。本像はヒノキの一木造で、簡素な彫法から南北朝時代から室町時代にかかる頃に造られたとみられます。
諦聴寺が四谷から現在地に移転するのは嘉永3年(1850)ですが、太子像はそれ以前から伝えられていたといいます。本像は、区内の真宗寺院に伝わる聖徳太子孝養像の稀少な作例であり、彫刻史のみならず信仰史の上からも貴重な作です。(渋谷区教育委員会掲示より)

諦聴寺の周辺図