南品川諏訪神社|天妙国寺の開基天目上人が勧請
南品川諏訪神社の概要
南品川諏訪神社は、品川区南品川にある諏訪神社です。南品川諏訪神社は、天妙国寺の開基天目が自身の生国信州の諏訪神社を勧請して、弘安年中に創建されたといわれております。
社号 | 諏訪神社 |
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祭神 | 建御名方命 |
相殿 | - |
境内社 | 茶の木稲荷神社 |
住所 | 品川区南品川2-7-7 |
備考 | - |
南品川諏訪神社の由緒
南品川諏訪神社は、天妙国寺の開基天目が自身の生国信州の諏訪大社を勧請して、弘安年中(1278-1287)に創建したといいます。江戸期には真了寺が別当を勤めていました。
「品川区の文化財」による南品川諏訪神社の由緒
天妙国寺の伝によると、開基天目は信州の生まれで、寺を建立した後に、本国の名社諏訪社を勧請して境内の鎮守とした。当時は海岸の州崎に建っていたので州の宮と称していた。その旧跡は今は海の中になってしまった。その後永享の頃社を境内に引いて再造した。同8年7月郡司二階堂沙弥正三は神田を寄附して祭事祭社を勧行させたのである。当時の社地は境内古図によるところで、今の処へ移したのはその後の事で、神体は衣冠の坐像である。妙国寺には享保15年25世日凰の写した縁起が所蔵されている。(「品川区の文化財」より)
東京都神社名鑑による南品川諏訪神社の由緒
諏訪神社
諏訪神社は妙国寺の南にあり、当寺を開山せる天日上人は信州の生まれで、郷里の大社諏訪明神を勧請したもので、当初は海岸の洲崎に建っていたので洲の宮といわれていた。永享のころ(一四二九-四一)、社を現境内に引いて再建した。同八年(一四三六)七月、郡司二階沙瀰正三は神田二段を寄進し祭事を勤行させた。(東京都神社名鑑より)
新編武蔵風土記稿による南品川諏訪神社の由緒
(南品川宿天妙国寺項)諏訪社
内の南にあり別に門を設く、寺傳に云開山天目は信州諏訪の産なり、當寺を剏立せし後本國の各社諏訪明神を勧請して境内の鎮守とす、當時は海岸の洲崎に立し故洲の宮と號す、其舊蹟今をもて推に變して海中に入しなり、星霜を歴て後永享の頃社を境内に引て再造す、同八年七月郡司二階堂沙彌三神田等を寄て神事祭禮を勸行せしむ、當時の社地は寛永古圖に據る所なるべし、今の所に移せしは又其後なり、神禮は衣冠の坐像にて、長五寸、社記頗考據あり、全文左に載す、
武州荏原郡南品川郷鳳凰山妙國寺鎮守洲の宮諏訪大明神勧請古傳之記、原諏訪大明神者、大己貴命御子健御名刀美命也、神代往昔信濃國諏訪郡鎮座、地號曰諏訪大明神云々、于此當山祝請之由来、神武皇帝九十世後宇多聖帝御宇弘安八乙酉年、天目上人(日蓮上人御弟子中老十八人僧中)當寺草創之日、後代寺門之繁榮、且法華弘法之心念、含中本地教主三身圓満之徳、祟外垂蹟和光之方便、力以神妙貴敬本國信州、爲靈神神明祈禱恭敬甚深、同年冬十一月中旬新造營社廟祭祠之、然而地形嶮于海打潮波于太前、故號洲之宮云々、神威日明力用夜昌、經曰、諸佛救世者住於大神通、爲悦衆生故現無量神力、仰神徳厚尊利生深、天下長久國家安全、寺門繁茂自他榮楽、後世賴合掌而己、百三世後花園院御宇、當郡司二階堂沙彌正三當社永久神事祭禮勤行、殊将軍家(足利治世)爲御祈禱神田等寄附之、(正三自筆別書有之)、永享十二年當邑之住人品川八郎三郎國友、當社宿願志旨快時之にち、社頭造立、此日當社棟札奉納之云々、文安元甲子年鈴木高純道印、當寺檀頭猶更神慮崇敬、七堂修造鎮守神殿再修云々、時代什僧法印日叡爲後證記之、當山鎮守諏訪大明神縁起一軸、料紙及損破、依之新寫之畢、時天正十一年癸未六月二日、鳳凰山十二世日城筆、元禄十五年壬午ねん二月下旬四ツ谷村より品川に至て大火あり、當寺開白以来始及火災類焼、此日本書其余書傳不殘焼亡、併遍艸案存之條再書寫之奉納新社者也、癸未林鐘上二時妙國寺住持敬書、諏訪大明神再修縁起奉納、願主南森藤原信辰、右諏訪明神之縁起、眞了院持参年代繰合之時寫本之通寫之収也、寫本は眞了院に有之、享保十五庚戌正月廿一日、當山廿世、大僧都法印日鳳、(新編武蔵風土記稿より)
南品川諏訪神社の周辺図
参考資料
- 「品川区の文化財」
- 東京都神社名鑑