大福生寺|土佐山聖天、大井聖天
大福生寺の概要
天台宗寺院の大福生寺は、海賞山地蔵院と号します。大福生寺は、明治14年に宇賀神寶海和尚が開基となり、日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立、明治24年に信徒より土地の寄進を受けて当地へ移転したといいます。本尊の十一面観音像は聖徳太子作と伝えられ、東海三十三観音霊場16番となっています。
山号 | 海賞山 |
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院号 | 地蔵院 |
寺号 | 大福生寺 |
住所 | 品川区東大井3-21-25 |
本尊 | 大聖歓喜天、十一面観音 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東海三十三観音霊場16番札所 |
大福生寺の縁起
大福生寺は、明治14年に宇賀神寶海和尚が開基となり、日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立、明治24年に信徒より土地の寄進を受けて当地へ移転したといいます。
境内掲示による大福生寺の縁起
当山は天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山とする。品川区大井関ヶ原町1202番地、俗称土佐山(松平土佐守下屋敷所在)に在る所より土佐山聖天、又は大井聖天と俗称す。
当山は東叡山寶観大僧正の法裔、宇賀神寶海和尚の開基にて同師、明治14年日本橋蛎殻町(水天宮の近所)に一寺を建立し、三宝山神護院大福生寺と称す。同19年6月に堂宇の落慶を見、その後同24年当地に移転され、今日に至る。(境内掲示より)
「大井町史」による大福生寺の縁起
大福生寺は、字北濱川千二百二番地に在り、東叡山寛永寺末で、本尊は十一面観世音菩薩及び聖歡喜天である。俗に人呼んで聖天様といふ。宇賀神宝海和尚の開基にして明治十五年日本橋蛎殻町に一宇を建て寺號公稱を許可せられ三寶山大福生寺と號す。本尊十一面観音像は聖徳太子の親作と傳へられ、又大聖歡喜天は、慈覺大師入唐研學後歸朝の折将来せられたる靈像で、駿府總持院に永く安置してあつたが、靈諭により京都嵐山の超空上人に附属した。然るに享保年間同地大佛妙法院の圓恕僧正之を感得し、之を同寺に移し奉安供養すること久しく、其の間雲深きあたりの御信仰もありしと云ふ。明治二十四年十一月信徒鹽澤重蔵なる者が、土地三百坪を寄進したるに依り、堂宇を新たに建立し同二十六年二月現在の地に移轉した。猶同寺は東海三十三所第十六番の觀音靈場なりと云ふ。(「大井町史」より)
大福生寺の本地仏
十一面観音(立像3尺6寸8分)大聖歓喜天(5寸5分の金像)2尊を安置す。歓喜天は慈覚大師入唐の尊像にして京都蘆山寺に秘蔵せられしを享保年間、妙法院門跡。円恕大僧正護持となり、明治10年同門跡、藤本道盈師より当寺開山宇賀神寶海和尚が懇願され将来せられしもの也。又十一面観音は聖徳太子の御作にして徳川三代将軍家光公の信仰厚く牛込矢来の長安寺に安置せらるが明治維新廃仏毀釈の際、寶海和尚を受けて当山の本地仏として奉安せり。特に大聖歓喜天は現在まで歴代の住職によって永年、日々祈願されし本尊である。その他、聖観音、薬師如来、愛染明王、妙見菩薩、四天王、鬼子母神、十六善神(境内掲示より)
大福生寺の周辺図