補陀落山海晏寺|東海三十三観音霊場
海晏寺の概要
曹洞宗系単立の海晏寺は、補陀落山と号します。海晏寺は、建長3年(1251)頃鮫洲に浮上がった大鮫の死体から正観音木像が出てきたことから、その正観音木像を安置するための堂宇として、建長寺開山大覚禅師を迎え創建されました。戦国時代に荒廃しましたが、徳川家康の命により再建、文禄2年(1593)本多佐渡守正信を迎えて、臨済宗建長寺派から曹洞宗寺院として中興開山し、現在に至っています。東海三十三観音霊場30番、東京三十三観音霊場初番札所です。
山号 | 補陀落山 |
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院号 | - |
寺号 | 海晏寺 |
住所 | 品川区南品川5-16-22 |
宗派 | 曹洞宗系単立 |
本尊 | 観世音菩薩 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 東海三十三観音霊場30番、東京三十三観音霊場初番 |
海晏寺の縁起
海晏寺は、建長3年(1251)頃鮫洲に浮上がった大鮫の死体から正観音木像が出てきたことから、その正観音木像を安置するための堂宇として、建長寺開山大覚禅師を迎えて創建しました。戦国時代に荒廃しましたが、徳川家康の命により再建、文禄2年(1593)本多佐渡守正信を迎えて、臨済宗建長寺派から曹洞宗系単立として中興開山し、現在に至っています。
「品川区の文化財」による海晏寺の縁起
建長3年(1251)の頃品川の海上に大鮫の死体が浮上がったのを、漁夫が取上げてその腹を割いたところ、中から正観音の木像を取出した。人々は不思議に思い門前を鮫洲と唱える様になったと伝えている。当時鎌倉執権北条時頼はこのことをきいて、珍しいことがあるものと一宇を建立し正観音像を安置した。南北40町余、東西10町余の寺域を与え、土木の工事が成って建長寺開山大覚禅師をむかえ開山として寺領100貫の地を寄附し、別に80貫文の地を与えて寺中に4院2庵及び堂宇2ヶ所等を建てた。又弘安の頃相模守平時宗はあらたに堂を作り、所持の阿弥陀像を安置し、供養料20貫文の地を寄附する。其後関東は荒廃し、堂宇も又兵火によって焼失し什宝ことごとくを失うのである。其後再造の事もあったがわずかに10分の1にすぎなかった。天正18年徳川氏入国の頃僧慶存を三河から召連れ、衰廃した寺を再興し、文禄2年(1593)本多佐渡守正信に命じて住持に定められた。この時に曹洞宗系単立に改宗して中興開山となった。
当寺の境内には昔から楓樹が多く、元禄頃から紅葉の名所となり、時季になると文人墨客が集まり境内に宴をはって遊山の酒に帰るのを忘れる程であったと云う。当時の俗謡に「あれ見やしゃんせ海晏寺、真間や高尾や竜田でも、及びないぞえ紅葉狩り」と云うのが流行したと云われる。(「品川区の文化財」より)
海晏寺所蔵の文化財
- 春秋庵白雄墓(東京都指定旧跡)
- 白井鳥酔墓(東京都指定旧跡)
- 岩倉具視墓(東京都指定旧跡)
- 上総般若寺公用銅製雲版(東京都指定有形文化財)
白井鳥酔墓(指定昭和7年2月17日)
鳥酔(~1769)は上総国埴生郡地引村に生まれた。名は信興といい、喜右衛門と称していた。生家はかなりの資産家であったが家を譲って江戸に出て長谷部柳居に従って俳諧を学んだ。はじめ牧羊と号し、のち露柱と号した。さらに松露庵2世を嗣ぎ、南浦松原庵および大磯の鴨立庵に住した。
鳥酔は天明俳諧の中興の先駆をなした蕉門の巨匠として名を世人に知られた。著書には「稲ふね」がある。明和6年4月4日に没した。(東京都教育委員会掲示より)
海晏寺の周辺図