須賀神社|旧稲荷天王合社、旧郷社、四谷の氏神
須賀神社の概要
須賀神社は、稲荷神社と牛頭天王社を併せて、江戸時代には稲荷天王合社と呼ばれていました。稲荷神社については、赤坂一ツ木に鎮座していた稲荷神社が、別当寺宝蔵院とともに寛永11年(1634)当地へ遷座したものです。また牛頭天王社は、当地を所領した馬込勘由が、旧所領日本橋大伝馬町の守護神牛頭天王社(神田神社内)を、守護神として寛永20年四谷の氏神様として勧請しました。明治元年に須賀神社と改称、明治5年には郷社に列格していました。
社号 | 須賀神社 |
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祭神 | 建速須佐之男命・宇迦能御魂大神 |
相殿 | 櫛稲田姫命、右御子五男神(天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、熊野樟日命、活津彦根命)、左御子三女神(多紀理姫命、市杵島姫命、多岐都姫命) |
境内社 | 大鳥神社、大国主命(摂社:天白稲荷神社) |
住所 | 新宿区須賀町5 |
祭日 | 元旦祭1月1日、節分祭2月3日、稲荷祭・戦没者慰霊祭4月21日、例大祭6月4日、夏越大祓式6月30日、大国神祭7月25日、七五三祝祭11月15日、大鳥神社大祭11月酉の日、年越大祓式・除夜祭12月31日 |
備考 | 旧郷社 |
須賀神社の由緒
須賀神社は、稲荷神社と牛頭天王社を併せて、江戸時代には稲荷天王合社と呼ばれていました。稲荷神社については、赤坂一ツ木に鎮座していた稲荷神社が、別当寺宝蔵院とともに寛永11年(1634)当地へ遷座したものです。また牛頭天王社は、当地を所領した馬込勘由が、旧所領日本橋大伝馬町の守護神牛頭天王社(神田神社内)を、守護神として寛永20年四谷の氏神様として勧請しました。明治元年に須賀神社と改称、明治5年には郷社に列格していました。
境内掲示による須賀神社の由緒
須賀神社はもと稲荷神社であった。稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永11年に江戸城外掘普請のため当地に移されたものである。
須佐之男命の鎮座の儀は、寛永14年島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主馬込勘由なる者幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永20年、神田神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神を地元氏の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永21年6月18日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった。通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た。明治元年に須賀神社と改称され、明治5年に郷社に昇格、戦後は制度改正により旧社格は撤廃された、
戦災前の御社殿は文化11年8月に起工し、15年の歳月をかけ、文政11年12月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが、昭和20年5月24日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した。然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。(境内掲示より)
境内掲示資料による須賀神社の由緒
四谷の産土神で、祭神は建速須佐之男命・宇迦能御魂大神の二柱です。
かつては牛頭天王社と稲荷社の二つの神社であったもので江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。
稲荷天王合社のうり稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。
一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院が、寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。
もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院に遷座したという説です。
牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641)に、神田神社境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋横町付近に小祠を立て祀ったものだそうです。
ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。
以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区18町会が氏子町となっています。(境内掲示資料より)
東京都神社名鑑による須賀神社の由緒
江戸開府以前、四谷御門前にあったが、寛永十一年(一六三四)堀割(現在の外堀)普請の用地となったので、その替地として現地に遷座されたものである。地主神である稲荷社地へ、天王社(現、須賀大神)が勧請され、寛永二十一年(一六四四)より両社をもって四谷総鎮守とし、毎年盛大な祭礼が行なわれてきた。明治元年に須賀神社と改称され、昭和二十年五月の大空襲により本殿および天白稲荷社を残し全焼。(東京都神社名鑑より)
須賀神社所蔵の文化財
- 須賀神社の三十六歌仙絵
須賀神社の三十六歌仙絵
三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966-1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六人を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・小野小町ら33名が選ばれている。
須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55cm、横37cmの絹地に彩色したものを、額装の上社殿内に掲げている。
当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764-1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797-1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。
四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つである。(新宿区教育委員会掲示より)
須賀神社の周辺図