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宗参寺|新宿区弁天町にある曹洞宗寺院

宗参寺の概要

曹洞宗寺院の宗参寺は、照臨山と号します。宗参寺は、牛込勝正が父勝行と祖父重行の菩提を弔うために吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚を開山に迎えて天文13年(1544)創建したといいます。天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁した小本寺格の寺院だったといいます。

宗参寺
宗参寺の概要
山号 照臨山
院号 -
寺号 宗参寺
宗派 曹洞宗
住所 新宿区弁天町1
葬儀・墓地 -
備考 -



宗参寺の縁起

宗参寺は、牛込勝正が父勝行と祖父重行の菩提を弔うために吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚を開山に迎えて天文13年(1544)創建したといいます。天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁した小本寺格の寺院だったといいます。

「牛込區史」による宗参寺の縁起

雲居山宗参寺 駒込吉祥寺
牛込宮内少輔勝行、父大胡重行菩提の爲め、天文十九年十一月、七千三百廿九坪の地を拝領した。内二千二百八十一坪は門前屋であつた。開山吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚、天正十九年四月廿三日寂、中興二世天岸榮碩大和尚、慶長五年五月八日寂、開基雲居院殿前大胡大守實翁宗参大庵主上野國大胡城主藤原重行、天文十二年九月十七日卒去。舊境内拝領地七千三百廿九坪七合餘、朱印寺領十石。(「牛込區史」より)

宗参寺所蔵の文化財

  • 山鹿素行の墓(国指定史跡)
  • 牛込氏墓(東京都史跡)

山鹿素行の墓(国指定史跡)

曹洞宗・宗参寺は、天文十二年(一五四三) に没した牛込垂行(法号、宗参)の廟所として、 その子勝行が創建した寺である。牛込氏はもと大胡姓を名のり、上野国赤城山南麓(現在の群馬県勢多郡大胡町)の領主であった。武蔵国守護の上杉氏の家臣であったが、大永四年(一五二四)に北条氏綱が江戸城を攻略させたときから、小田原北条氏の家臣となって、牛込地域の領主になった。牛込城(袋町、光照寺付近)にいて、北条氏の江戸衆の主要メンバーであった。領地は牛込郷ほか四ヵ村で、一七七貫余であった。重行-勝行-勝重と北条氏に仕え、天正十八年(一五九〇)の北条氏の滅亡により江戸に入城した徳川家康にしたがい、のち旗本となって、幕末に至った。宗参寺の牛込氏墓地には、寛文四年(一六六四)に、勝正が、先祖である重行と勝行とを供養して建てた供養塔を中心に、歴代の墓がある。(新宿区の文化財より)

山鹿素行の墓

山鹿素行は江戸時代前期の儒学者・兵学者で、素行は号である。元和八年(一六二二)に会津 に生まれ、江戸へ出て九歳で林羅山に儒学、十五歳で小幡景憲・北条氏長に兵学を学んだ。承 応元年(一六五二)、三十一歳のとき、赤穂藩主浅野長直に仕えて家禄千石を賜わった。その間、当時の官学であった朱子学の抽象性を批判し、古代の聖賢の教えにかえることを主張し、また古学を唱えて家塾をおこし、多くの門弟をそだてた。明暦二年(一六五六)に「武教要録」などの三部作を著わし実学を重視する考えを主張した。寛文五年(一六六五)には、かれの語録「山鹿語類」が集大成された。また「聖教要録」で、朱子学を批判したため、翌年、赤穂藩へ流された。晩年には許されて江戸に帰り、積徳望を開き、儒学や兵学を教えたが、貞享一一年(一六八五)六十四歳で没した。著書が多く、「山鹿素行全集」にまとめられている。(新宿区の文化財より


宗参寺の周辺図