正定山幸国寺|江戸十祖師の除厄布引祖師
幸国寺の概要
日蓮宗寺院の幸国寺は、正定山と号します。幸国寺は、中明院日観(慶安3年1650年寂)が開山となり、寛永7年(1630)に創建したといいます。山門は、かつて田安家が使用していた屋敷門を移築したものだといいます。江戸十祖師の除厄布引祖師です。
山号 | 正定山 |
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院号 | - |
寺号 | 幸国寺 |
住所 | 新宿区原町2-20 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 永代供養墓瑠璃殿 |
備考 | 江戸十祖師の除厄布引祖師 |
幸国寺の縁起
幸国寺は、中明院日観(慶安3年1650年寂)が開山となり、寛永7年(1630)に創建したといいます。山門は、かつて田安家が使用していた屋敷門を移築したものだといいます。
「牛込區史」による幸国寺の縁起
(原町)正定山幸國寺
寛永七年起立、開山中明院日観、慶安三年十二月十三日寂、舊境内古跡年貢地千五百坪、持添百坪、寄進地百坪。地中に圓融坊がある。(「牛込區史」より)
「新宿区の文化財史跡ガイドブック」による幸国寺の縁起
日蓮宗・正定山幸国寺は寛永7年(1630)この地に創建された。開山は日観上人である。山門は明治維新後に譲りうけた田安家の屋敷門である。本堂に安置されている日蓮上人像(木像)は、ふるくから、「布引の御影」として悪病除けの信仰を集め、堀の内妙法寺、谷中瑞輪寺の両祖師とともに江戸の三高祖の一つとして有名であった。
境内には、江戸幕府の勘定奉行や道中奉行などをつとめ、能吏として知られた石川忠房(天保7年1月18日没、82歳)の墓や、幕末維新期に相撲界で活躍した大関綾瀬川山左衛門(明治10年2月8日没、墓石は同19年建立)の墓のほか、儒者、医者などの墓、イチョウの大木がある。(「新宿区の文化財史跡ガイドブック」より)
幸国寺所蔵の文化財
- 幸国寺の山門(新宿区指定文化財)
- 幸国寺の題目塔(新宿区指定文化財)
- イチョウ(新宿区指定文化財)
幸国寺の山門
日蓮宗幸国寺の山門で、向かって右側側に番所が併設された形式等から、江戸時代後期の建築と推定される。形式は棟門(腕木門)で、切妻造・桟瓦葺である。背面には控柱が建ち、主柱と貫でつながれており、番所と袖壁が付属する。全体的に雄大・素朴な作りであり、装飾的な要素はほとんど見られないが、番所には繊細な彫物による装飾が見られる。
この山門は、幕末から明治時代に檀家の長嶋三郎兵衛の寄付を得て移築されており、長嶋家では大名屋敷家の門を移築したと伝えられている。かつての幸国寺の門前町は、その後原町となり、現在も町名として残っているが、この山門は、門前町を含めた当時の面影を伝える数少ない建築であり、また、区内でも希少な江戸時代の建造物として重要である。(新宿区教育委員会掲示より)
幸国寺の題目塔
幸国寺山門前の題目塔は、寛政四年(一七九二)八月に建てられた高さ四メートルの大型の石塔である。
塔正面に「南無妙法蓮華経 法界万霊」、向かって右側面に「奉唱満妙題一千部」、左側面に「奉読誦妙経一百部」と刻まれていることから、万霊のための供養塔であること、施主が続けて一千回「南無妙法蓮華経」と唱える首題行と百部の法華経読誦を達成したことがわかる。なお施主の曽根氏について詳しい来歴は不明である。本塔は、江戸時代に標準的な題目塔の形式であるが、区内の題目塔では最も規模が大きく、保存状態も良好である。
後ろに建つ山門(区指定有形文化財)とともに、江戸医大の景観を偲ばせる文化財としても意義がある。(新宿区教育委員会掲示より)
幸国寺の周辺図