鎮護山善国寺|新宿山之手七福神
善国寺の概要
日蓮宗寺院の善国寺は、鎮護山と号します。善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(二條関白照實の子、後の池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建、寛政5年(1793)当地へ移転したといいます。善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されて、新宿山之手七福神の一つに列しています。
山号 | 鎮護山 |
---|---|
院号 | - |
寺号 | 善国寺 |
宗派 | 日蓮宗 |
住所 | 新宿区神楽坂5-36 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 新宿山之手七福神の毘沙門天 |
善国寺の縁起
善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、日惺上人(二條関白照實の子、後の池上本門寺十二世)が麹町六丁目に文禄4年(1595)創建、寛政5年(1793)当地へ移転したといいます。善国寺毘沙門堂の毘沙門天は、加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれ、江戸の三毘沙門と称されて、新宿山之手七福神の一つに列しています。
「牛込區史」による善国寺の縁起
(神楽坂)鎮護山善國寺 池上本門寺末
文禄四年麹町に開基、日惺起立、(日惺は本門寺十二代、二條關白照實の子だといふ)日悟の代に水戸黄門の信仰を得、延寳二年本堂竝に鎮守毘沙門堂建立、寛政四年類焼後神楽坂に移つた。開山佛乗院日惺、舊境内拝領地七百五十坪餘、毘沙門堂に安置せる立像は、傳教大師作、加藤清正陣中守本尊であつたといひ傳へる。現今の堂宇は地の利を得て賽者が夥しい。(「牛込區史」より)
「新宿区の文化財」による善国寺の縁起
鎮護山善国寺。日蓮宗で池上本門寺の末寺である。開山は、池上本門寺十二代の住職、日惺(にっせい)上人で、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけ、文禄四年(一五九五)に麹町六丁目(千代田区)に創建した。寛文十年(一六七〇)に火災にあったが、徳川光圀の援助もあって、延宝二年(一六七四)に本堂と鎮守の毘沙門堂が再建された。
享保十二年(一七二七)にも火災にあい、角筈に替地を命ぜられたが、岩本内膳正(ないぜんのかみ)の訴願が聞きいれられて沙汰やみとなった。そこで内膳正は中興開基とされる。寛政四年(一七九二)の類焼に際しては、火除地として召しあげられ、替地として現在地を拝領し、翌年移転した。有名な毘沙門天像【区指定文化財】は、加藤清正の守仏とも伝えられる。毘沙門天は多聞天の別称で、四天王の一つ、仏法や北方を守護する軍神である。のち七福神の一つとして福徳を授ける神となり、庶民の信仰を集めるようになった。文化十三年(一八一六)刊の『遊歴雑記』には、「御府内七福神方角詣」の第一にあげられ、天保七年(一八三六)刊の『江戸名所図会』には、長谷川雪旦のさし絵「牛込神楽坂」に善国寺・毘沙門堂の全景が描かれ、「月毎の寅の日には参詣移しく、植木等の諸商人市をなして賑へり」と註記されている。同九年(一八三八)刊の『東都歳時記』には、芝金杉の正伝寺とともに毘沙門講の人が多く集まり、「正・五・九月の初寅開帳あり。三は中寅にあり」と記されているが、虎は千里を走るという諺から金銀を早くためるようにと、寅の日が縁日とされた。明治末期には境内に出世稲荷があることから午の日にも縁日を開くことにしたので、「神楽坂の毘沙門様」と呼ばれてにぎわった。東京で縁日に夜店が出るようになったのは明治二十年ごろからで、ここがはじまりという。昭和九年には山の手七福神の一つとなった。(「新宿区の文化財」より)
善国寺所蔵の文化財
- 善國寺の毘沙門天像(新宿区指定文化財)
- 善國寺の石虎(新宿区指定民俗文化財)
善國寺の毘沙門天像
「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
木彫で像高三十センチ、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は室町時代頃を推定されるが、詳しくは不明である。加藤清正の守本尊だったとも、土中より出現したともいわれる。
善國寺は、文禄四年(一五九五)德川家康の意を受けて日惺上人により創建された。この像は、日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白昭実公より贈られたと伝えられる。
毘沙門天は、別名を多聞天と称し、持国寺・増長天・広目天と共に四天王の一つである。寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に世に現れたといい、北方の守護神とされる。
善國寺の毘沙門天は、江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。現在も、正月・五月・九月の初寅の日に毘沙門を開帳し、賑わいを見せている。(新宿区教育委員会掲示より)
善國寺の石虎
安山岩製の虎の石像で、像高は阿形(右)が八十二センチ、吽形(左)は八十五センチで、台石・基礎部も含めた総高は、両像ともに二メートルをこえる。台石正面には浮彫があり、虎の姿を動的に表現している。
嘉永元年(一八四八)に奉納されたもので、阿形の台石右面には、「岩戸町一丁目」「藁店」「神楽坂」「肴町」などの町名と世話人名が刻まれ、寄進者が善國寺周辺の住民であったことがわかる。石工は原町の平田四郎右衛門と横寺町の柳沼長右衛門である。
善國寺は毘沙門天信仰から「虎」を重視し、石虎の造立も寄進者らの毘沙門天信仰によると考えられる。また、台石に残された寄進者名や地名は、江戸時代後期における善國寺の毘沙門天信仰の広がりを示している。
石虎は都内でも珍しく、区内では唯一の作例である。戦災による傷みが見られるが、希少な石像であるとともに、地域にとっても貴重な文化財である。
なお、阿形の台石正面にある「不」に似た刻印は、明治初年のイギリス式測量の几号水準点で、残存している数は全国的にも少ない。(新宿区教育委員会掲示より)
善国寺の周辺図