茲現山真英寺|新宿区若葉にある真宗大谷派寺院
真英寺の概要
真宗大谷派寺院の真英寺は、茲現山と号します。真英寺は、祐真上人が旗本士三浦助蔵を頼って慶長2年(1597)に出府、麹町清水谷貝塚村に元和3年(1617)創建したといいます。寛永12年(1635)四谷北寺町へ移転、以後何度かの移転を繰り返し文政期後に当地へ移転したといいます。
山号 | 茲現山 |
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院号 | - |
寺号 | 真英寺 |
住所 | 新宿区若葉2-1-3 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | 永代供養墓安寿の会募集 |
備考 | - |
真英寺の縁起
真英寺は、祐真上人が旗本士三浦助蔵を頼って慶長2年(1597)に出府、麹町清水谷貝塚村に元和3年(1617)創建したといいます。寛永12年(1635)四谷北寺町へ移転、以後何度かの移転を繰り返し文政期後に当地へ移転したといいます。
「四谷區史」による真英寺の縁起
茲現山眞英寺、浅草本願寺末の眞宗で四谷北寺町今の愛住町にあつた。境内は借地二百五十一坪餘である。元和三年丁巳麹町清水谷貝塚に借地して起立し、寛文二年壬寅に四谷南伊賀町の同心村山太郎右衛門の地面を借受け、更に南寺町なる西應寺の境内に借地し、同十年庚戌に北寺町正應寺境内を借りたが、手狭の爲に明和三年丙戌十月地福院の境内に引移つた。これもまた借地である。此寺嘉永の切繪圖には石切横町東福院の隣地にあつて、現今と異る所がない、文政後の轉移であることだけは明かである。開基祐眞は慶長二年旗下の士三浦助蔵を便つて三州より来た僧であつた、寂年月は寛文八戊申年九月廿五日。(「四谷區史」より)
「四谷南寺町界隈」による真英寺の縁起
若葉2丁目1番地3(旧四谷区寺町30番地、再校江戸砂子に北寺町とす)
真宗浅草東本願寺末(大谷派)、茲現山と号す。
初め麹町清水谷貝塚村にあって、元和3年丁巳に借地して起立し、寛永12年現地に移ったとあるが、書上を追って行くと、この寺位転々としている寺はない。書上には清水谷から四谷北寺町(後に愛住町となる。明治5年に町名を付されるまで北寺町といった)に移ったように見えているが、この年代が寛永12年であろう。それより寛文2年壬寅に四谷南伊賀町の同心村山太郎右衛門の地面を借受け、更に南寺町の西応寺内に借地したが寛文10年に北寺町の正応寺境内を借りて(正応寺は現愛住町10番地、真宗大谷派でやはり麹町から寛永11年此地に移る)また愛住町に戻った訳となる。ここが手狭なためさらに明和3年丙戌10月、地福院(地福院は江戸砂子及び東都伽藍記には天台宗の条があるが、四谷北町としたのみで明治の記録には見えず、廃寺かあるいはこれが東福院と合併したか)の境内に引移った。しかしこれも借地であって、嘉永切図には現東福院(この寺は真言)の片隅に見えていて、文政頃の移転であるという事は明白であるという。
ゆえに他寺の如く麹町貝塚よりいきなり現地に来た訳ではなく、愛住町へ二度も行ったり西応寺へ入ったり、多少墓地はあったろうが(今は沢山の墓地がある)容易な事ではなかったろう。
開山祐真上人は慶長2年、旗本の士、三浦助蔵を頼って三州より来た僧であり、寛文8戌申年9月25日入寂している。つまり幕府や大名の援護がなかったので、以上のように住所が定まらなかったのかもしれぬ。
本尊阿弥陀如来、寺宝や過去帳も数度の火災で焼けてない。昔時境内は「志料」には850坪とあるも、今は607坪との事である。東福院の先、左側の横町を入り左側。切図と同様である。(四谷南寺町界隈より)
真英寺所蔵の文化財
- 親鸞聖人御絵伝
真英寺の周辺図