福聚山常圓寺|新宿区西新宿にある日蓮宗寺院
常圓寺の概要
日蓮宗寺院の常圓寺は、福聚山と号します。常圓寺は、天正13年(1585)日立上人が創建したと伝えられます。
山号 | 福聚山 |
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院号 | - |
寺号 | 常圓寺 |
住所 | 新宿区西新宿7-12-5 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | 常圓寺祖師堂 |
備考 | - |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
常圓寺の縁起
常圓寺は、天正13年(1585)日立上人が創建したと伝えられます。
新宿区の文化財による常圓寺の縁起
日蓮宗の寺院で、福聚山常圓寺という。天正13年(1585)日立上人により創建された。本堂に向かって右側にしだれ桜がある。これはもと、小石川伝通院、広尾光林寺のものとならんで 「江戸三木」といわれ、また「江戸百本桜」の一とされた桜の三代目として、昭和45年に植えられたものであって、近くに天明期(1781-1789)の俳人冬暎の「うれしさや命をたねの初さくら」という句を刻んだ碑がある。
寺の広い中庭、左奥の植込みの間に見える便々館湖鯉鮒狂歌碑は、狂歌師便々館湖鯉鮒の 「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」という狂歌を刻んであるが、大田南畝(1749-1823)の筆になるものである。南畝は蜀山人・四方赤良・寝惣先生・山手馬鹿人など、二十もの号をもち、狂歌・酒落本・滑稽本の作者として知られた人で、牛込に生まれた。性質が明るく世の人に好かれた南畝のもとへは、名筆を乞う者が続々とつめかけたという。この石碑が建てられた文政2年(1819)は湖鯉鮒の死んだ翌年でもあるので、ことによると追善のためのものかも知れない。
本堂には顔を徳川十一代将軍家斉に似せたという変った日蓮像がある。これは、法華信仰に厚い側室お美代の方の勧めによって、家斉が江戸城の鬼門を守護するための感応寺建立を発願した際、そこに祀られる予定だった像である。感応寺は伊勢忠敬の設計による規模壮大なものであったが、幕府の財政ひきしめ方針によって実現を見ずにおわり、日蓮像だけが今日に伝えられることとなった。この像は、胎内にお美代の方が日ごろ礼拝していた日蓮像(戦災で焼失)を納めたところから「はらごもりの祖師」と呼ばれて信仰を集めていた。
本堂右の墓地に入って直進すると一番奥に2mをこえる五輪塔の墓石が目につく。これは江戸南町奉行や幕末の対ロシア外交にあたった筒井政憲の墓である。安政6年(1859)に没した政憲は、儒学にも書にも秀れていた。本堂のわきに並んだ七体の地蔵尊は、昭和5年6月に発覚した大久保町の七乳児絞殺トランク詰死体の被害者の冥福を祈って建てられたものであるが、今日では無縁行路死亡者および水子霊をあわせて供養する法要が、区の医師会や助産婦会、それに町会の人々によっていとなまれている。
本堂裏から細い道路を隔てた北側の墓地へ入って左へ行くと、辰野金吾・秀子夫妻と辰野隆・
久子夫妻の名を刻んだ墓石が隣接して建っている。大正から昭和期にかけて活躍した著名な建築学者(東京駅丸ノ内駅舎等を設計)とフランス文学者父子のものである。(新宿区の文化財より)
常圓寺所蔵の文化財
- 便々館湖鯉鮒狂歌碑(新宿区指定史跡)
- 筒井政憲の墓(新宿区指定史跡)
常圓寺の周辺図