高月山長善寺|高月栄法比丘尼が開基
高月山長善寺の概要
浄土宗寺院の長善寺は、高月山瑞翁院と号します。高月山長善寺は、新宿成覚寺を創建した浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚が開山、千駄谷村名主太十郎の先祖に当たる高月栄法比丘尼が開基となり、元和9年(1623)神宮外苑付近に創建したといいます。青山練兵場造成のため、明治22年当地に移転しました。当寺にはかつて大阪城に安置されていた応永14年製の釋迦如来銅像があったといい、この銅像には鉄砲の弾痕が数箇所あったことで著名だったといいます。
山号 | 高月山 |
---|---|
院号 | 瑞翁院 |
寺号 | 長善寺 |
住所 | 新宿区四谷4-33-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
高月山長善寺の縁起
高月山長善寺は、新宿成覚寺を創建した浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚が開山、千駄谷村名主太十郎の先祖に当たる高月栄法比丘尼が開基となり、元和9年(1623)神宮外苑付近に創建したといいます。青山練兵場造成のため、明治22年当地に移転しました。当寺にはかつて大阪城に安置されていた応永14年製の釋迦如来銅像があったといい、この銅像には鉄砲の弾痕が数箇所あったことで著名だったといいます。
「四谷區史」による高月山長善寺の縁起
高月山瑞翁院長善寺は芝増上寺末の浄土宗で、千駄谷今の明治神宮外苑四谷大番町寄にあつた。境内惣坪は六百四十五坪半あつて年貢地である。元和九年癸亥の起立で、開山は浄蓮社岌譽瑞直信和尚、開基は高月尼法名高月榮法比丘尼である。兩者の法號を以て山號院號にした譯で、正保五年戊子正月廿日開山が絶命し、寛永十六年己卯六月廿四日開基が歿した。境内寄進者は即ち此高月尼で、千駄谷村名主太十郎の先祖に當る人であるが、その後享保十七年に同家で又々地所を寄附したのを合せると、前記の六百坪餘に成るのだといふ。
笹寺の長善寺に對して、この長善寺が廣く世に聞えたのは、銅佛釋迦如来のあつた爲であらう。佛躰は三尺餘の座像で、脊に應永十四年八月に鑄造した銘文があり、豊太閤大坂城内に安置したと傳へられ、鐵砲の玉疵が前後八箇所ほどあつた。云ふまでもなく大坂役の名殘を示す玉疵である。天和三年八月以来この像長善寺に安置されたといふが今は無い。(「四谷區史」より)
「渋谷区史」による高月山長善寺の縁起
長善寺(千駄ヶ谷)
浄土宗、高月山瑞翁院という。千駄ヶ谷にあつた。増上寺末。元和九年の起立にかかり、開山は浄蓮社岌誉上人。瑞翁直信和尚、(正保五年正月二十日寂)。開基は村の名主太十郎の先祖高月尼である。寛永年間高月院が地面を寄進し、後また寺院を寄進し、尋でその子孫彌次右衛門が、享保十七年にも寄進した。本尊は阿彌陀如来。境内六百四十五坪半。稲荷社、釈迦堂があつた。釈迦如来の像は、応永十四年八月廿五日の鋳仏で、後に大坂中に安置し鉄炮庇五六ヶ所あつたと、釈迦如来縁起に見えている。(「渋谷区史」より)
ガイドブック新宿区の文化財による高月山長善寺の縁起
長善寺は同じ四谷四丁目に同名の通称「笹寺長善寺」があるが、こちらは芝増上寺の末寺、浄土宗で、高月山瑞翁院と号している。元和9年(1623)の創立で、今の神宮外苑絵画館付近にあったが、青山練兵場造成のため、明治22年当地に移ってきた。開山は浄蓮社岌誉瑞翁直信和尚、開基は高月栄法比丘尼で、開基は千駄ヶ谷名主太十郎の先祖にあたる人だという。両名の法名から山院号が付けられている。
笹寺長善寺に対し、この寺が世に知られたのは、銅造釈迦如来像があったためである。仏体は1mほどの座像で、背に応永14年(1407)8月鋳造の銘文がある。豊臣秀吉が大阪城に安置していたと伝えられ、鉄砲の弾丸跡が八ヶ所ほどあった。これは大坂の陣の名残を示すもので、天和3年(1683)以来当寺に所蔵されていたというが、今はない。(ガイドブック新宿区の文化財より)
御府内寺社備考による高月山長善寺の縁起
増上寺末千駄ヶ谷
高月山瑞翁院長善寺、境内御年貢地六百四十五坪半
起立之儀者元和九癸亥年ニ御座候山号院号之儀開山開基之法号ヲ以高月山瑞翁院ト号申候。寺地之儀者当村名主太十郎先祖高月尼ト申者寛永年中何程ニ候哉寄進仕其後享保十七子年六月同家先祖弥右衛門尚又地面寄進有之候っ右両度之寄進ニ而前書坪数ニ相成候得共初メ何坪後何坪候申儀相知不申候。
開山浄蓮社岌誉上人瑞翁直信和尚、正保五年戌子正月廿日寂。
中興開山信蓮社源誉上人随誓空道和尚、延宝五年十月十一日寂。
開基高月栄法比丘尼、寛永十六巳卯年六月廿四日寂。
本堂間口五間半奥行六間半。本尊弥陀如来坐像長一尺八寸。善導大師、円光大師、厨子入立像二尺。
稲荷社方四尺。
釈迦堂。釈迦如来、銅坐像長三尺余。(御府内寺社備考より)
東京名所図会による高月山長善寺の縁起
長善寺古銅佛
長善寺は。青山権田原の西に在りしが。明治二十二年此邊一円錬兵場となるの際。四谷永住町三十番地に移れり。當寺の古銅佛は。有名なるものにて。俗に鐡砲観音と稱せり。鐡砲中りて痕跡處々に存すればなり。是は昔東本願寺内にありしものにして。大阪城中に移されしが、落城の後江戸に持ち来り。今村傳三郎が八町堀の邸内にありしを。天和二年壬戌九月。當寺の依念和尚に約して之を送り。此處に安置せるなり。其の背に應永十四年丁亥八月廿五日と刻しあり。委しくは四谷の條に記すべし。(東京名所図会より)
高月山長善寺の周辺図