阿佐谷神明宮|杉並区阿佐谷北の神社
阿佐谷神明宮の概要
阿佐谷神明宮は、杉並区阿佐谷北にある神明宮です。阿佐谷神明宮の創建年代は不詳ですが、周辺から縄文時代後期の石器が発見されており、当社の神体も縄文時代後期の磨製石器と推定されている点や、応永27(1420)年の書状にもあさがやの地名が記載されている点などから、古くより拓けた地の鎮守社であったと考えられています。江戸時代には阿佐谷村の鎮守社となっていた他、明治5年には村社に列格していました。
社号 | 神明宮 |
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祭神 | 天照大御神 |
相殿 | 日枝神社・神明宮・北野神社 |
境内社 | 被戸神社・白山神社・稲荷神社(合殿)、猿田彦神社・須賀神社・三峯神社・御嶽神社 |
祭日 | 例祭日9月16日 |
住所 | 杉並区阿佐谷北1-25-5 |
備考 | 旧阿佐谷村鎮守、旧村社 |
阿佐谷神明宮の由緒
阿佐谷神明宮の創建年代は不詳ですが、周辺から縄文時代後期の石器が発見されており、当社の神体も縄文時代後期の磨製石器と推定されている点や、応永27(1420)年の書状にもあさがやの地名が記載されている点などから、古くより拓けた地の鎮守社であったと考えられています。江戸時代には阿佐谷村の鎮守社となっていた他、明治5年には村社に列格していました。
新編武蔵風土記稿による阿佐谷神明宮の由緒
(阿佐ヶ谷村)神明社
除地、百五十坪、小名本村にあり、村内の鎮守なり。本社は二間に一間半、拝殿三間に二間南向、長さ二尺余、囲二尺許の丸き石を神体とす。前に鳥居を立。鎮座の年代詳ならず。 (新編武蔵風土記稿より)
「杉並区の神社」による阿佐谷神明宮の由緒
当社は、「新編武蔵風土記稿」多摩郡阿佐ヶ谷村の条に神明社とあって「除地、百五十坪、小名本村にあり、村内の鎮守なり、本社は二間に一間半、拝殿三間に二間南向、長さ二尺余、囲二尺許の丸き石を神体とす、前に鳥居を立」とあるが、創建の年代は詳かでない。しかし、応永27(1420)年5月9日の「武蔵国江戸の惣領之流」(熊野那智神社蔵)のなかに「中野殿 あさかやとの」とみえ、永禄2(1559)年の「小田原衆所領役帳」には「八拾四貫文 中野内阿佐谷」とあるので、阿佐谷村の成立は古い。村内から元徳3(1331)年の板碑も出土している。また神体は清水三丁目にある中瀬天祖神社と同じく石棒である。おそらく縄文時代後期の磨製石器であろう。近年でも妙正寺川の周辺(中野区若宮)から出土している。大きさからみるとこれも縄文時代後期のものと推定される。なお、阿佐谷の天祖神社の伝承については後述するように、寛政12(1800)年に著わした「江戸名所図会」(斎藤市左衛門)に詳しい。(中略)
天祖神社の由緒は、「江戸名所図会」巻之四によっているといえる。すなわち、阿佐谷神明宮の条に「相伝ふ、景行天皇の四十四年、日本武尊東夷を征伐し給ひて御凱陣の時、この地に休らひ給ひしかば、其後土人等尊の武功を慕ひ奉り、其地を封じて一社を経営し、神明宮を勧請す。然るに建久の頃、此地の農民横井兵部といへる人、祈願あるにより伊勢大神宮へ参詣せんと、勢州能保野の駅舎に宿す。其夜大神宮の霊示ありて、翌日宮川の水中にして一顆の霊石を得たり。依て神意に任せ旧里へ携へ帰り、件の神明宮の社に安置して神体となし奉るといへり。其後祇海といへる沙門神告あるにより、社を今の地に遷すとなり。其旧地は七八町東のの方にあり土人これを元伊勢と称す。」とある。社伝では文中の農民横井兵部は横川の誤記と考えている。また現在の境内地は村主某の屋敷で、旧社地は阿佐谷北五丁目三五に位する「お伊勢の森公園」一帯であった。神社の祭神が伊勢神宮と同一であるところから、村人は旧社地を今日でも「お伊勢の森」と称している。しかし遷座の年代は明らかでない。ただし境内神社と境内末社は明治をむかえて遷移されたと思われる。字小山七番地(現在の阿佐谷五丁目五叉路の地)にあった猿田彦神社(社殿間口奥行ともに三尺、境内二畝三歩、官有地)は明治四十年に本社と合併した記録があるが、江戸時代には天祖神社をはじめ、上記の神社の別当はすべて世尊院であった。村社に列したのは明治五年十一月である(明治七年四月は誤記)。 (杉並区の神社より)
阿佐谷神明宮の周辺図