成宗弁財天社|成宗村の開村と同時期に勧請
成宗弁財天社の概要
成宗弁財天社は、杉並区成田東にある弁財天社です。成宗弁財天社の創建年代は不詳ですが、成宗村の開村と同時期に、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられているといい、現在は成宗須賀神社の役員により維持管理されているといいます。
社号 | 弁財天社 |
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祭神 | 素盞嗚尊 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | - |
住所 | 杉並区成田東5-29-3 |
備考 | - |
成宗弁財天社の由緒
成宗弁財天社の創建年代は不詳ですが、成宗村の開村と同時期に、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられているといい、現在は成宗須賀神社の役員により維持管理されているといいます。
杉並区教育委員会掲示による成宗弁財天社の由緒
成宗弁財天社
当社は、成宗村がつくられたのと同じ頃、水神様のご加護を祈って、湧水池(弁天池、現在、神社裏手の住友銀行社宅内)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられていますが、詳細は不明です。ご神体は、鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったという伝説のある、素焼きの曼荼羅像です。
近世の当社は、近在の村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、弁天社にお詣りし、弁天池の水を持ち帰る習慣であったといわれています。近代になっても大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣りの歳には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったということです。
この弁天池は天保十一年(一八四〇)、馬橋村等が開さくした新堀用水の中継池として利用されましたが、その際池を盛り上げた土で富士講のための築山をつくりました。成宗と呼ばれた富士塚がそれです。この富士塚は、大正七年頃にとりこわされましたが、境内の大日如来像・惣同行の碑・浅間神社・手水鉢などは、かつての成宗富士のおもかげを伝えています。
また、鳥居前に残る石橋・水路跡は天保用水の名残りで、板型の用水路記念碑と共に貴重な文化遺産です。
当社は、弁天講中の人々により手厚く守られてきましたが、現在は隣接する須賀神社役員により引きつがれ、維持管理されています。(杉並区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による成宗弁財天社の由緒
弁財天に関する記述なし。
成宗弁財天社の周辺図