神明天祖神社|杉並区南荻窪の神社

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神明天祖神社|戦国時代末期には既に創祀

神明天祖神社の概要

神明天祖神社は、杉並区南荻窪にある神社です。神明天祖神社の創建年代は不詳ですが、伊賀人、小林大弁・浅沼但馬守等が天正12年(1584)検地した際に、「草叢の中にすでに小社ありたり」ということから、戦国時代末期には既に祀られていたといいます。元和年間(1615-1623)に香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢が当地に土着し当社を再建したものの、零落に至り慈雲山光明院が管理していたといいます。百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等が文政元年(1827)に周囲を拓き、荻窪八幡神社の境外摂社としたといいます。

神明天祖神社
神明天祖神社の概要
社号 天祖神社
祭神 天照皇太神
相殿 -
境内社 御嶽神社
祭日 例祭日9月15日
住所 杉並区南荻窪2-37-22
備考 -



神明天祖神社の由緒

神明天祖神社の創建年代は不詳ですが、伊賀人、小林大弁・浅沼但馬守等が天正12年(1584)検地した際に、「草叢の中にすでに小社ありたり」ということから、戦国時代末期には既に祀られていたといいます。元和年間(1615-1623)に香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢が当地に土着し当社を再建したものの、零落に至り慈雲山光明院が管理していたといいます。百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等が文政元年(1827)に周囲を拓き、荻窪八幡神社の境外摂社としたといいます。

「杉並の神社」による神明天祖神社の由緒

当社は『新編武蔵風土記稿』上荻窪村の条に神明社とあって「除地、二時九段五畝六歩、東の方下荻窪村の界ひにあり、社は四尺四方にて西に向ふ、神体はなし、村内の光明院の持なり」とある。創建は評かでないが、天正十二(一五八四)年以前に遡るという。かって荻窪八幡神社の境外摂社であった。明治十二年の『神社明細帳』には当社について
上荻窪字東原 無格社 天祖神社
一、祭神 天照大御神
一、由緒 不詳
一、本殿鯛空間半
一、境内坪数 三百九十三坪 官有地
畑二町人反六畝十二歩 上荻窪村字東風
とあるが、今日の天祖神社は左のごとくである。
一、祭神 天照皇太神
二、境内末社(一社) 御嶽神社
三、境内地一八五〇坪
四、主要建物 社殿(鉄筋コンクリート)二二坪、神楽殿七坪、末社一坪、社務所四〇坪
五、例祭日 十月十五日
六、由緒
現宮司が著わした『天祖神社由緒沿革』によれば、「当社の創祀詳ならざるも後陽成天皇の天正十二年九月二十四日、伊賀人、小林大弁・浅沼但馬守等承りて検地を為すに当り、草叢の中にすでに小社ありたりといへばこれ以前のものたるや疑なし。其の後、伊賀の百姓移り住むや、社を修め、伊勢大明神と崇め祭りたるものと伝ふ。
其の後、下総国香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢、北条氏に加勢して破れ、元和中(一六一五~二三)武蔵に逃れ紀州公に仕ふ。次いで水刀谷伴蔵故ありて流浪し武蔵多摩郡荻窪村にちっ居す。この人また紀州公に仕へて広大なる邸宅を横へ多くの土地を私有するに及び、荒廃せる林中に伊勢宮あるを知り祭儀を行い、桜樹を植えて桜の馬場と称せり。紀州公お成りの節のお休所なり。寛永六(一六二九)年の頃、水刀谷氏零落するに及び村民持となりしが、村内慈雲山光明院の持となりたり。
後、文政元(一八二八)年正月百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等四囲を拓き、上荻窪八幡神社の境外摂社とす。」
とある。なお当社は明治十五年九月に社殿を修築し、昭和十二年社務所を新築した。同三十二年には社殿十三坪余ならびに神楽殿七坪を新築したが、さらに同五十三年四月に工を起し社殿・社務所の改築を行なった。社殿は(鋼板茸鉄筋コンクリート造)二十二坪、社務所は(木造平家建)四〇坪である。その後も神楽殿屋根替・透塀の建設、手水舎改築などに着手し、社号棟・石造燈龍・コンクリート製大鳥居等を奉納し、参道を改修して今日の境内の景観を整えた。祭日は十月十五日である。(「杉並の神社」より)


神明天祖神社の周辺図