遅野井市杵嶋神社|源頼朝が奥州征伐の際に水を得るのに難渋
遅野井市杵嶋神社の概要
遅野井市杵嶋神社は、杉並区善福寺にある市杵嶋神社です。遅野井市杵嶋神社は、源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得たことから、建久八年(1197)江ノ島弁財天を勧請して創建したと伝えられ、この由来に因んで当地周辺が遅野井と称するようになったといいます。
社号 | 市杵嶋神社 |
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祭神 | 市杵嶋姫命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
祭日 | 例祭日4月8日 |
住所 | 杉並区善福寺3-18-1 |
備考 | 井草八幡宮の摂社 |
遅野井市杵嶋神社の由緒
遅野井市杵嶋神社は、源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得たことから、建久八年(1197)江ノ島弁財天を勧請して創建したと伝えられ、この由来に因んで当地周辺が遅野井と称するようになったといいます。
杉並区教育委員会掲示による遅野井市杵嶋神社の由緒
この島に鎮座する社は、市杵嶋神社といい、祭神は市杵嶋姫命です。
当社は江戸時代、善福寺池の弁財天といわれ、「新編武蔵風土記稿」には「池の南に弁天の祠あり。一尺(約三十センチメートル)四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて、長八寸(約二十四センチメートル)はかり」とあります。
また寛永年間(1624-44)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地に移されたといわれ、それ以降、その島を「元弁天」という様になりました。
「善福寺弁天略縁起」によれば、この地域の旧名「遅の井」の地名譚(源頼朝が奥州征伐の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所を穿ちましたが水の出が遅く、弁才天を祈り、やっと水を得た)に倣い、建久八年(1197)に江ノ島弁才天を勧請したのが当社の始まりとあります。
このことから甘水に霊験ありとして、旱魃の折には区内はもとより、練馬・中野の村々からも雨乞い祈願に参りました。
雨乞い行事は、池水を入れた青竹の筒二本を竹竿につるして担ぎ、その後に村人達が菅笠を被り、太鼓をたたいて「ホーホィ、ナンボェゝ」と唱えながら村境を巡りました。また氏神の前に井戸水と池水をはった四斗樽四個をすえ、四方に散水しながら祈ったともいわれています。
この様に旱魃の年毎に行われてきた雨乞いの行事も、昭和二十四年(1949)を最後に見られなくなりました。
例祭日は四月八日です。(杉並区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による遅野井市杵嶋神社の由緒
(上井草村)善福寺池
池の南の方に弁天の祠あり。一尺四方にて南に向ふ。本尊は石の坐像にて長八寸許り、村民の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
遅野井市杵嶋神社の周辺図