江島杉山神社|鍼灸師杉山検校が邸内に創建
江島杉山神社の概要
江島杉山神社は、墨田区千歳にある神社です。江島杉山神社は、盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)当地に屋敷地を拝領、彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建したといいます。明治時代に、江の島弁財天を祀った江島神社と杉山検校を祀った杉山神社とを合祀して江島杉山神社となりました。
社号 | 江島杉山神社 |
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祭神 | 江の島弁財天、杉山検校 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 墨田区千歳1-8-2 |
祭日 | 杉山大祭5月18日 |
備考 | - |
江島杉山神社の由緒
江島杉山神社は、盲目の鍼灸師杉山検校が元禄6年(1693)当地に屋敷地を拝領、彼が修業した江の島の弁天岩窟を模して屋敷内に創建したといいます。明治時代に、江の島弁財天を祀った江島神社と杉山検校を祀った杉山神社とを合祀して江島杉山神社となりました。
境内掲示による江島杉山神社の由緒
江島杉山神社の由緒
当社は神奈川県藤沢市江島神社の弁財天を奉斎し、またその弁財天を深く信仰した杉山和一を併せ祀る。
杉山和一(慶長十五<一六一〇>年~元禄七<一六九四>年)は三重県津市の武家の生まれで幼い頃失明し、身を立てるために鍼術を志す。江戸の山瀬琢一入門し修行に励む中、江島弁財天の岩屋にて七日七夜の参籠をした。
業が明けた日外に出ると大きな石に躓いてしまうが何か手に刺さる物があり探ってみると、筒の様にくるまった枯葉(スダジイ)の中に一本の松葉が入っていた。
「いくら細い鍼でも管に入れて使えば盲人の私にも容易く打つ事が出来る」
こうして、現在鍼治療の主流である管鍼術が生まれた。躓いた石は「福石」として、本社江島神社の境内に祀られている。この後より深く鍼治を学ぶため京都の入江豊明の元へ入門する。そして江戸で治療所を開くと、その噂は瞬く間に広がった。同時に多くの弟子を輩出し、世界初の盲人教育の場、職業の確立を進めた。寛文十(一六七〇)年一月、和一は六一歳にして検校の位を受けた。その名声により五代将軍徳川綱吉の医師として務めるようになる。
元禄五(一六九二)年五月九日将軍より総検校に任ぜられる。和一が八三歳の時、綱吉公の難病を治療した功により「何か望みの物はないか」との問いに「唯一つ 目が欲しゅうございます」と答え、ここ本所一ツ目に総録屋敷の領地を賜わり更に和一が高齢になっても月参りを欠かさなかった江ノ島弁財天が屋敷内に勧請された。翌年には壮麗な社殿が建立、本所一ツ目弁天社と呼ばれ江戸名所となり、多くの信仰を集めた。元禄七(一六九四)年五月十八日八四歳没。明治四年当道座組織が廃止され総録屋敷も没収されつが、当社は綱吉公が古跡並の扱いとしたため残され、社名も江島神社となる。明治二三年四月杉山和一霊牌所即明庵も再興し、境内に杉山神社を創祀。震災、戦災により二つの社殿とも焼失するが戦後昭和二七年合祀し、江島杉山神社となる。(境内掲示より)
東京都神社名鑑による江島杉山神社の由緒
元禄六年(一六九三)鍼術杉山流の祖杉山和一総検校が五代将軍綱吉公より、ここに宅地を賜わったさいに、日頃信仰していた江の島の弁財天を勧請した。一つ目弁天と称していたが、明治以降は江島神社と称し、戦後、末社に祀ってあった杉山和一大人命の霊や、末社の稲荷社および金刀比羅社の祭神をも合祀し、江島杉山神社と改めた。(東京都神社名鑑より)
「墨田区史」による江島杉山神社の由緒
元禄六年(一六九三)に、杉山流鍼術の祖杉山和一総検校が幕府から屋敷地を与えられた時、日ごろ信仰していた江の島(藤沢市)の弁財天を勧請し、社を建てたもので、当初は本所一ツ目弁天の名で呼ばれていた。明治年間に入って江島神社と称したが、現在は杉山検校をも合わせ祭って江島杉山神社と称している。祭神は、市寸島比売命(弁財天)・大物主命・杉山和一命である。
境内には、昭和三十四年に、財団法人杉山検校遺徳顕彰会が会の創立三十周年に当たって建立した頌徳碑がある。また、境内の池の奥には、江の島の岩くつをかたどって造られた岩屋がある。
杉山検校は、元禄七年五月十八日に没し、弥勒寺(立川一丁目)に葬られたが、「続近世奇人伝」は次のように記している。
杉山検校は遠江(静岡県)浜松の人也。十歳にして瞽者となれり。其の性豪爽にして凡ならず。眼は盲たりといへども名を天下に成さんことを欲し、十七歳の時鎌倉に至り江島の岩屋に入りて断食し、祈ること三七にち、丹誠比類なし。されば満つる夜の夢に鍼と管とを得ると思ひて覚めたるに、その物実に掌中にあり。いとかたじけなく、諸侯よりの招に応じて病を癒することしばしば也。終に大君の招を蒙り日々に御前に侍するに、或日望むことありやとの御命有りしに、只一ツさむらふよし申す。何事ぞ申せとあれば、目一ツ下され候へと申すに侍ふ人も皆大にわらひけり。君は戯言ながら哀におぼして、本庄一ツ目といふ所一町四方給はりて五百石扶持し給ひ、目一ツなるいと興じさせ給ふ。其の後又三百石御加御あり、検校職に任ぜらる。今も僧禄やしきとてあり。弁財天を勧請し、又つねに観世音を信じ、慈悲を専らとし、(中略)盲人を救ふこと多し。皆内の盲者皆その恩を蒙る。(中略)終れる年元禄七年庚戌六月廿六日也。子孫世々其の禄をうくとぞ。(「墨田区史」より)
江島杉山神社所蔵の文化財
- 杉山検校頌徳碑
- 八橋城秀検校の碑
杉山和一と総禄屋敷跡について
ここは江戸時代、関東周辺の琵琶法師や鍼灸師、按摩などの盲人を統括していた総禄屋敷の跡です。 杉山和一は慶長10年(1610)、伊勢国安濃津(三重県津市)で生まれました。幼時に失明、はじめ江戸の山瀬検校に鍼灸を師事しましたが、後に京都の鍼師入江豊明に弟子入りしました。 厳しい修業の後、江ノ島の岩窟で断食祈願を行いました。その満願の明け方、霊夢を通して新しい針管術を考案しました。杉山流管鍼術は、鍼を管に入れ、的確にツボを押さえるという画期的なものでした。 その後の和一の名声は日増しに高まり、寛文10年(1670)、検校に任じられました。 さらに五代将軍綱吉の治療の功で褒美を尋ねられ、和一は目を請いました。綱吉は一ツ目(本所一之橋際の土地)と関東総禄検校職を与えたと伝えられています。時に元禄6年(1693)6月のことでした。 一町四方の土地に総禄屋敷と神社が建てられ、現在の場所には鍼治講習所もありました。現在の神社の名は、土地の拝領者と厚い信仰をささげた江ノ島弁財天を意味します。社殿の南側には江ノ島の岩窟を模した洞窟があります。(墨田区教育委員会掲示より)
※杉山検校の墓は立川弥勒寺にあります。
江島杉山神社の周辺図