正栄山妙縁寺|墨田区吾妻橋にある日蓮正宗寺院
妙縁寺の概要
日蓮正宗寺院の妙縁寺は、正栄山と号します。妙縁寺は、京都要法寺の開山日尊上人によって創建されたと伝えられ、寛永6年(1629)に日舜上人が中興したといいます。
山号 | 正栄山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙縁寺 |
住所 | 墨田区吾妻橋2-2-10 |
宗派 | 日蓮正宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙縁寺の縁起
妙縁寺は、京都要法寺の開山日尊上人によって創建されたと伝えられ、寛永6年(1629)に日舜上人が中興したといいます。
東京名所図会による妙縁寺の縁起
妙縁寺
妙縁寺は中之郷原庭町五十二番地に在り。正榮山と號す。日蓮宗にして駿河國富士郡上條村大石寺の末なり。寛永六年日舜上人の開設に係る。
當寺第十八世の住持たりし日脱上人は豪俊にして器幹あり。好みて人の難に赴き水火をも避けず。相馬大作(本名加斗米将真)の二孤を救ひし如き其の一なり。大作が其の藩事の為に刑せらるや。子あり龍といひ。姪あり諒一と名く。皆幼なり。津軽氏物色して之を索ること急なり。大作もと幕府の士清水恆光翁(新田純孝君の祖父)と往来甚だ親しむ。翁も亦気概あり。上人と善し。乃ち寅夜二狐を拉し上人に託す。津軽氏益々之を捜り跡稍々露る。然かも上人の豪俊を憚り敢て人らず。上人二孤に諭し被髪せしめ。常陸なる某寺に護送す居ること半年。偵吏来り狙ふ。上人因て二孤を己が轎に入れ之を大石寺に送る。二孤僧となるを屑しとせず。武技を鍛錬して父が讐を復せむとす。上人其の不可なるを知り屡々戒諭す。遂に節を折りて其の教に服したりといふ。當時若し清水翁と上人となかりせば。二孤は直ちに刑場の露となりしなるべし。危哉。
上人と清水翁と親善なりし證跡は。今寺内に豊嗽題せし石の水鉢あり。
文政十一年十月十三日次戌子歳
正榮山造立十八世甚深阿闍梨 日脱代
発願主完器講中八歳童清水孝書
と刻せり。此清水孝(畸太郎)君は即ち翁の嗣子にて純孝君の父なり。(東京名所図会より)
「本所區史」による妙縁寺の縁起
妙縁寺は中之郷原庭町五十二番地に在り正榮山と號し日蓮宗にして駿河國富士郡上條村大石寺の末である。寛永六年日舜上人の開設する所である。當時十八世の住持であつた日脱上人は豪俊にして器幹があり、好んで人の難に赴き水火をも避けずといふ性質であつた。それ故相馬大作が刑せらるることとなつた時、上人の親交のあつた幕府の士清水恒光翁の依頼により大作の二兒を保護して津輕藩に一指だも染めさせなかつたといふ逸話が殘つて居る。又この恒光翁は文政頃に於ける能書の神童として知られた清水孝(畸太郎)の父である。同寺も大正十四年七月付を以て府下南葛飾郡小松川町に移轉を許可せられた。
妙縁寺所蔵の文化財
- 「夜寉井銘」の碑(墨田区登録文化財)
- 歌沢寅右衛門の墓
「夜寉井銘」の碑
妙縁寺の境内に夜寉井と称する名泉ありと、「寺社書上」「葛西志」などに記されていますが、現在は碑石だけが残されているのみです。
銘文に続いて、「宝暦2年6月 蘭台通凞撰、宝暦12年(1762)壬午12月5日 郎川勝包貫建並書」とあります。
天祥寺の養老泉と共に名泉といわれました。(すみだの史跡文化財めぐりより)
妙縁寺の周辺図