久遠山常泉寺|名主高橋新右衛門が開基、大石寺末寺筆頭
常泉寺の概要
日蓮正宗の常泉寺は、久遠山と号します。常泉寺は、仙寿院日是上人が開山、地元の名主高橋新右衛門が開基となり、慶長元年(1596)創建しました。徳川家とのつながりも深く、寛永7年(1630)には寺領30石の御朱印状を拝領したといいます。日蓮正宗の古刹寺院であり、大石寺に次ぐ名刹であることから末寺頭(まつじがしら)、大石寺末寺筆頭などとも呼ばれているといいます。昭和3年の区画整理で、境内が縮小され、当時の本堂は千葉清涼寺へ移築されました。
山号 | 久遠山 |
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院号 | - |
寺号 | 常泉寺 |
住所 | 墨田区向島3-12-15 |
宗派 | 日蓮正宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
常泉寺の縁起
常泉寺は、仙寿院日是上人が開山、地元の名主高橋新右衛門が開基となり、慶長元年(1596)創建しました。徳川家とのつながりも深く、寛永7年(1630)には寺領30石の御朱印状を拝領したといいます。
新編武蔵風土記稿による常泉寺の縁起
常泉寺
法華宗駿河国富士郡上條村大石寺末、久遠山と号す。本尊は本山25世日宥の筆せし三宝の板本尊を安す。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す。慶長元年当寺を創し元和7年6月28日死す。此人は高橋氏にて下総国千葉氏家人の末流なり。今も近郷高橋氏を称するもの数家あれど、皆日是の庶流の者にして嫡流の家は絶しといへり。然るを村長九兵衛が傳へに彼が十四世の祖高橋新右衛門は当時の開基にて、慶長11年6月11日死し啓遠院浄印と号す。寺域はもと己が宅跡なりしに、初は浄土真宗を尊信して当所へ聖徳太子の堂を営み、其後慶長の頃改宗して太子堂を中之郷へ移し(吾妻橋如意輪寺)、新に当寺を創立す。寺中啓遠坊は則啓遠印浄印隠棲の旧地なりと云。此寺には傳へさる処なりと理あるに似たれば姑く傳への儘を録す。其後当寺第七世日頸は京都の産にて後水尾院第一の皇女無品内親王の御取立てにあつかり、屡御所祈祷など命ぜられ延宝7年内親王の御女天英院殿文昭院殿へ御入輿の時、供奉して関東へ下り当寺に住しけるか、御由緒をもて若君姫君及び御部屋斎宮御方等寺内へ送葬し奉りしかば、寛永7年3400坪余りの寺地を賜はり、同年西葛西領小谷野村にて本乗院殿御佛供料30石の御朱印を附せらる。正徳元年6月御本末御客御殿を賜て書院とし、同き4年天英院殿思召を以本堂御造営及び客殿経佛具等一色寄附したまひ、同年又本堂建立のためとて金1500両を下し賜はり。宮殿経机四十部天蓋一色御造立ありしと云。
(中略)
寺中。
法種坊。本行坊(本行寺)。本住坊。壽法坊。啓遠坊。(新編武蔵風土記稿より)
すみだの史跡文化財めぐりによる常泉寺の縁起
慶長元年(1596)の創建で、開山は仙寿院日是上人、開基は高橋新右衛門と伝えます。延宝7年(1679)御水尾天皇第一皇女が徳川家宣へ降嫁する際に従った日顕上人が常泉寺へ入ったり、家宣の幼女政姫を常泉寺に葬るなど、徳川家の信仰を得ました。寺料30石を給され、境内も源森川から続き、本行坊・本種坊・本住坊の三塔頭もありました。現在は日蓮正宗大石寺の末寺になっています。(すみだの史跡文化財めぐりより)
常泉寺所蔵の文化財
- 朝川善庵墓(東京都指定旧跡)
- 医聖漢張仲景先生之碑
- 従三位勲二等薬学博士下山君碑
- 加藤たきの句碑
朝川善庵墓
江戸後期の儒学者で松浦候に仕えていた。名は鼎といい江戸に生まれた。父片山兼山と早く死別し、医師朝川黙翁に養育された。十二歳の時山本北山に学び、養父黙翁に伴われ京阪に遊んだ。善庵はここに三年逗留、さらに寛政十年(1798)長崎鎮台肥田豊州に従って長崎に赴き、さらに南九州を遊歴すること5年、研鑽を積んだ。高名になった善庵を松浦候は儒官として迎え、多くの列候が彼の教えを受けたという。弘化三年(1846)将軍に拝謁し、さらに名を高めたが、嘉永二年(1849)二月七日、年六十九才で没した。主な著書として、「周易愚説二巻」、「易説家伝旧聞四巻」「寺経六書」などがある。(昭和43年3月1日 東京都教育委員会)
常泉寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿