宝珠稲荷神社|浅草町の鎮守として祀られていた社
宝珠稲荷神社の概要
宝珠稲荷神社は、台東区清川にある稲荷神社です。宝珠稲荷神社の創建年代は不詳ですが、天正17年(1598)には浅草町の鎮守として祀られていたといいます。万治元年(1658)浅草町が御用地となり、町と共に亀戸に移転、天和二年(1682)に当地へ再度移転したといいます。
社号 | 宝珠稲荷神社 |
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祭神 | 倉魂稲命 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 台東区清川2-15-1 |
備考 | 無格社、浅草神社兼務社 |
宝珠稲荷神社の由緒
宝珠稲荷神社の創建年代は不詳ですが、天正17年(1598)には浅草町の鎮守として祀られていたといいます。万治元年(1658)浅草町が御用地となり、町と共に亀戸に移転、天和二年(1682)に当地へ再度移転したといいます。
境内掲示による宝珠稲荷神社の由緒
当神社の起立に付ては、明確な資料がなく、その創建年代を確立することは不可能でありますが、古文書によると、戦国時代の開纂を嘱矢された戦国大名北条早雲の五代目小田原城主北条氏直が、室町時代末期、天正17年(1589)9月、浅草寺門前町の「浅草町」に於いて、初めて「観音市」を開かれ、その市を取締るために、町に後北条氏の虎朱印の「禁制」が出されました。
その当時、浅草町に宝珠稲荷社が鎮座し、町民が守護して居ったのであります。其後屋敷跡に在った時、その土地が幕府の用地となり万治元年(1658)に本所亀戸村に替地を給されました。又その地にあった本所御旗本衆御扶持人衆が屋敷替になった為、附近に殆んど居住しているものがなくなり、又場末でもあり、町民が波世が出来得なくなったので、天和2年(1682)10月に名主と町民が奉行所に替地請願の訴訟状を提出し、町は山谷町と小塚原町の中間の現在地(旧浅草町全域)に替地を給されました。
神社は町とは別に奉行所よりの特別の指示により、浅草寺除地(現在地)間口9尺、奥行20間の土地を賜ったのであります。
明治35年8月10日、隣接地の氏子より土地81坪6合を売買によって取得しました。
大正12年9月関東大震災には、境内地の各社殿及種々多数の樹木を全焼いたしましたが、「御神霊」は社守によって「拝殿」が新規造営寄進され、「御神霊」を奉安いたしました。
昭和2、3年頃当地区に、特別都市計画に基づく区画整理が施行され、地籍は大幅に減じられましたが、境内地は西向が南向に変更になっただけで、天和2年(1682)10月奉行所よりの特別指示で賜った大半の土地が現在も氏子の絶大な協力によって引続き維持されております。
昭和20年大東亜戦争末期の東京大空襲の際、神社の灼なる御神徳の御加護と氏子の必死の消火活動により、境内地の全建物は焼失の難を免れたのであります。
東京都神社名鑑による宝珠稲荷神社の由緒
社蔵の古文書により、当社は天正十七年(一五八九)には浅草町の鎮守として祀られていたとされている。万治元年(一六五八)浅草町は、浅草知東院のところ(現在の伝法院)の駒形広小路小あけ屋敷跡にあったが、幕府の御用地となり町全体が本所亀戸村に移転を命ぜられたとある。しかしその土地は都市の郊外で、生活するのに困難なため天和二年(一六八二)に名主と住民が、町の移転を連署で奉行所に請願し、そこで替地となったのが現在の鎮座地となったとある。(東京都神社名鑑より)
宝珠稲荷神社の周辺図