平賀源内墓|台東区橋場にある名所旧跡
平賀源内墓の概要
平賀源内墓は、台東区橋場にあり、国史跡に指定されています。平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名です。安永8年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、当地にあった総泉寺に葬られたといい、総泉寺が板橋区小豆沢に移転した後も墓は当地に保存、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備され、昭和18年に国史跡に指定されたといいます。
名称 | 平賀源内墓 |
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みどころ | 平賀源内墓、築地塀 |
入場時間 | - |
入場料 | 無料 |
住所 | 台東区橋場2-22-2 |
備考 | 国指定史跡 |
平賀源内墓について
平賀源内墓は、台東区橋場にあり、国史跡に指定されています。平賀源内は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した発明家で、エレキテル(摩擦起電機)の復元製作や、火浣布(石綿の耐火布)の発明で著名です。安永8年(1779)に殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で獄死、当地にあった総泉寺に葬られたといい、総泉寺が板橋区小豆沢に移転した後も墓は当地に保存、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備され、昭和18年に国史跡に指定されたといいます。
台東区教育委員会掲示による平賀源内墓について
平賀源内は享保十三年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の三男で名は国倫。源内は通称である。寛延二年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元製作、火浣布(石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山人・福内鬼外などの号名をもち、「風流志道軒伝」などの滑稽本や、浄瑠璃「神霊矢口渡」などの作品を残している。
安永八年(1779)十一月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で十二月十八日に病死、遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永八己亥十二月十八日 智見霊雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和三年(1928)板橋区小豆沢へ移転したが、源内墓は当地に保存された。昭和四年に東京府史蹟に仮指定され、昭和六年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和十八年に国指定史跡となった。(台東区教育委員会掲示より)
平賀源内墓の周辺図