総泉寺|板橋区小豆沢にある曹洞宗系単立寺院

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妙亀山総泉寺|開基千葉介により浅草橋場に創建、旧曹洞宗江戸三ヶ寺

総泉寺の概要

曹洞宗系単立の総泉寺は、妙亀山と号します。総泉寺は、貞元(976-977)以前の開創と伝えられます(梅若伝説という貞元元年に3月15日非業の死を遂げた梅若丸を弔った母妙亀尼の草庵)。確かな資料では、開基千葉介により浅草橋場に建仁元年(1201)2月創建したといいます。大雄山最乗寺三世噩叟宗俊が曹洞宗に改宗開山、江戸時代には御朱印20石、境内28000坪を給され、曹洞宗の江戸三ヶ寺(青松寺泉岳寺・当寺)触頭の筆頭を勤めていました。関東大震災で罹災し、昭和3年当地へ移転、大善寺を併合して現在に至っています。

総泉寺
総泉寺の概要
山号 妙亀山
院号 -
寺号 総泉寺
住所 板橋区小豆沢3-7-9
本尊 釈迦牟尼仏
宗派 曹洞宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 墓宛受付中



総泉寺の縁起

総泉寺は、貞元(976-977)以前の開創と伝えられます(梅若伝説という貞元元年に3月15日非業の死を遂げた梅若丸を弔った母妙亀尼の草庵)。確かな資料では、開基千葉介により浅草橋場に建仁元年(1201)2月創建したといいます。大雄山最乗寺三世噩叟宗俊が曹洞宗に改宗開山、江戸時代には御朱印20石、境内28000坪を給され、曹洞宗系単立の江戸三ヶ寺(青松寺泉岳寺・当寺)触頭の筆頭を勤めていたといいます。関東大震災で罹災し、昭和3年当地へ移転、大善寺を併合して現在に至っています。

板橋区教育委員会掲示による総泉寺の縁起

御本尊釈迦如来。宗派曹洞宗。妙亀山と称する。
本寺はもと浅草の橋場の大寺で、創立は建仁元年(1201)2月。開基は千葉介。中興開基は16世紀中頃当時の石浜城主千葉介守胤。その後石浜城主千葉氏の菩提寺となる。江戸時代になると江戸三刹の一つとして幕府の庇護をうけるとともに、秋田藩佐竹氏の江戸での菩提寺となった。ところが関東大震災で被災すると、昭和3年この地に移転してきて大善寺と合併した。
境内に祀られている薬師三尊は、もと大善寺の本尊で清水薬師とも称され、清水坂の地名もこれによる。また地蔵堂に祀られている地蔵は、もと清水坂の中腹にあったもので、現在は子育地蔵として信仰をあつめている。なお、墓地内には佐竹候や明治画壇の大家寺崎広業、大名松平忠良・忠憲父子の墓碑などがある。(板橋区教育委員会掲示より)

いたばしの寺院による総泉寺の縁起

もと浅草橋場にあり曹洞宗江戸初開の道場。開創は貞元(976-977)以前とも伝える。創立は建仁元年(1201)2月。開基は千葉介。開山僧は不詳。当所は法相或いは律相であった。後、禅宗となり、曹洞宗開山は相模最乗寺三世噩叟宗俊、中興開基は千葉介守胤(法名総泉寺院殿長山昌潡大居士、弘治3年1557年11月8日寂)以後代々千葉氏(石浜城主)の菩提寺となる。地元民をはじめ、北条・太田・宇都宮・遠山・梁田ら諸将の尊信を集めた。旧地内周辺は城址との説もある。山号「妙亀」は貞元元年3月15日非業の死を遂げた梅若丸を弔うため母妙亀が尼となり庵を結び此の寺のはじめをなしたという伝承に依る。
中世は会下寺とも呼ばれ、永禄2年には石浜会下領40貫900文を有し、雲水は常にニ、三百人が集まっていたという。近世に入り徳川家康の小田原攻略の際、境内の竹を旗竿に献上したことから御朱印20石、境内28000坪を給さる。後、鷹狩りの折の御善所に指定さる。
秋田藩主佐竹義宣は水戸在城時より帰依し、その菩提寺となし、江戸三ヶ寺(青松寺泉岳寺とも)の筆頭となり、元禄6年曹洞門「常恒会」となる。正徳・享保・明和・慶応と数度の火災にあい、更に大正の大震災により、堂宇・寺宝・古記録等の殆とを焼失した。震災後、市の区画整理に依り昭和3年現在地に移転し、大善寺を併合した。(いたばしの寺院より)

御府内寺社備考による総泉寺の縁起

下総国府台総寧寺末 浅草橋場総泉寺、境内拝領地28000坪。
御朱印寺領20石。
御府内曹洞宗系単立触頭三ヶ寺之一。当時触下71ヶ寺末寺13ヶ寺内1ヶ寺三州西尾12ヶ寺武州之内。
当時起立者、円融院之御宇巳前ヨリ総泉寺ト号シ其比宗派法相又ハ律相共言伝フ。其時之開山開基姓名不知。
開山相州関本最乗寺之開山了庵和尚ヨリ三代目之嗣法也。此頃曹洞ニ相成其頃最乗寺之末ニアリシカ其後何之頃総寧寺ニ成シヤ不知。開山遷化、寛正6年11月19日。
中興開基建仁元年、土御門院御宇、桓武天皇24代之孫千葉介守胤則廟所在之。法名長山昌潡居士、弘治3年11月8日卒ス。
再中興開基寛永年中佐竹右京大夫源義宣公、法名浄光院殿傑堂天英大居士。寛永10年正月25日卒ス。
天正18年。東照神君小田原御陣之節当寺境内之竹旗竿ニ差上則御利運ニ而関八州初而御手ニ入御喜悦之余御書并御製札御朱印拝領之。翌天正19年11月境内28000坪并御朱印高20石新規ニ被置、猶又御府内一宗之支配被仰付之。御朱印御本書二代将軍様代替之節御老中松平出雲守殿江差上置候処、其節御屋敷ニ而焼却尤相違無之ニ付三代将軍様ヨリ御代々之御朱印賜之候。
当寺御膳所ニ相成候。初は天正19年。東照神君御鷹野ヨリ当寺江被為在、御立寄、夫ヨリ御代々御膳所ト申伝候得共、旧記焼失後不相分候。(以下省略)(御府内寺社備考より)


総泉寺所蔵の文化財

  • 大善寺址石坂供養塔(板橋区文化財)
  • 総泉寺薬師三尊塔(板橋区文化財)

総泉寺の周辺図


参考資料

  • 御府内寺社備考
  • 「いたばしの寺院」