待乳山聖天本龍院|関東三聖天、浅草七福神
待乳山聖天本龍院の概要
待乳山聖天本龍院は浅草寺の子院で、創立は推古3年(595)年に遡ります。関東三聖天の一つ、浅草七福神の毘沙門天です。
山号 | 待乳山 |
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院号 | 本龍院 |
寺号 | - |
住所 | 台東区浅草7-4-1 |
宗派 | 聖観音宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 関東三聖天の待乳山聖天、浅草七福神の毘沙門天 |
- 待乳山聖天山門
- 待乳山聖天参道
- 待乳山聖天本堂
- 待乳山聖天華殿
- 待乳山聖天銅造宝篋印塔
- 待乳山聖天内神社
- 待乳山聖天本龍院毘沙門堂
- 待乳山聖天本龍院檀信徒会館
- 待乳山聖天本龍院御朱印
- 待乳山聖天本龍院毘沙門天御朱印
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
待乳山聖天本龍院所蔵の文化財
- 待乳山聖天銅造宝篋印塔(台東区登載文化財)
銅造宝篋印塔(平成13年度登載)
宝篋印塔は平安時代頃から「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づく供養塔として造立が行われています。笠の四隅に「隅飾り突起」を設ける点が他の石塔と大きく異なる点です。室町時代以降は供養塔だけでなく、墓標としての造立も行われるようになりました。形態的にも変化が起こり、従来の隅飾り突起が笠側面から上方へ垂直に延びているのに対し、時代が降るとともに次第に外側へ反るものが現れます。近世初期になると隅飾りの反りは前代以上に甚だしくなり、加えて相輪に装飾が施されるようになります。しかし、隅飾りつきの宝篋印塔は、江戸時代に入ると次第に造立されなくなり、江戸時代中ごろには、替わって塔身の上に屋根型の笠を付けた宝篋印塔が造立されるようになります。本塔も江戸時代の中期以降に流行した屋根型の笠をもつ宝篋印塔です。
銘文は本塔基礎西面に「天明改元辛丑歳/五月大吉祥日/待乳山/本龍院現住/恵晃代/御鋳物師/西村和泉守作」とあり、東面には16名の奉納者名が刻まれており、蔵前の札差等によって奉納されたことがわかります。作者の西村和泉守は、江戸時代から大正時代にかけて11代にわたって鋳物師を務めた家で、本塔の作者は紀年銘から5代西村政平にあたります。
本龍院の銅造宝篋印塔は、総高163.5cm。本宝篋印塔は、全国的にも類例の少ない銅造の宝篋印塔で、とくに台東区内では、造立当初からほぼ完形として遺存する唯一の事例です。各部の装飾は優れており、鋳物師の名家、西村家5代政平の高い技能を知ることができます。また蔵前に店を構えた札差の奉納物としても貴重な歴史資料です。
待乳山聖天本龍院の周辺図