勝龍山等覚寺|台東区元浅草にある真宗大谷派寺院
等覚寺の概要
真宗大谷派寺院の等覚寺は勝龍山と号します。等覚寺は、徳川家康より上野下に地所を拝領して、慶専権大僧都(越前大守朝倉左衛門尉義景之嫡男左馬頭信景、承応元年1652年卒)が創建したと伝えられます。
山号 | 勝龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 等覚寺 |
住所 | 台東区元浅草2-10-17 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
等覚寺の縁起
等覚寺は、徳川家康より上野下に地所を拝領して、慶専権大僧都(越前大守朝倉左衛門尉義景之嫡男左馬頭信景、承応元年1652年卒)が創建したと伝えられます。
「浄土真宗東派明細簿」による等覚寺の縁起
武蔵國豊島郡東京浅草南清島町六番地
真宗 等覺寺
開基権大僧都慶専俗称ハ越前國主朝倉弾正日下部貞景朝臣ノ二男右兵衛尉景隆嫡男左兵衛督勝龍入道シテ京都蘆山天台講寺貫主珍應権大僧都ノ附弟タリ文禄年中右蘆山寺住職也然ルニ東派本願寺十二代目教如上人ヘ帰依仕改宗直弟子トナリ十三代目宣如上人江戸御参向ノ砌供奉仕當地ヘ参リ家康公ノ御取建ニ預リ慶長四己亥年京橋ニ於テ壹萬坪寺地拝領被仰付其節等覺寺并ニ地中貮ケ寺創立仕候然ルニ明暦三丁酉年大火ニテ一山悉ク類焼仕其節上野下寺町ニテ三千坪替地拝領被仰付其砌地中八分地仕候夫より元禄十一戊寅年二月上野下寺町圍込ニ付只今現今ノ地拝領被仰付候事
従前寺格内陣列座(「浄土真宗東派明細簿」より)
御府内寺社備考による等覚寺の縁起
東本願寺末 浅草新寺町
朝倉山一条院等覚寺、境内古跡拝領地270坪、添地157坪半
越前大守朝倉左衛門尉義景之嫡男左馬頭信景也。法諱慶専権大僧都也。初而神田二一宇造立。
御入国後上野下江何千坪拝領之由。今現居之地加藤織部之屋敷江替地被仰付。三十三間堂前江下屋鋪被下置。其地所同所遍立寺二属。往古者地中三ケ寺有之。遍立寺・真龍寺・楽邦寺。右之内楽邦寺儀者凡年代六七十年己前本坊江摂。本尊木仏等今当寺二有之候。真遍之弐ケ寺今現二他地二有之候得共、如何之訳と申儀相分不申。只過去帳二地中遍立寺誰、地中真龍寺誰、地中楽邦寺誰と名有之。以是往古地中三ケ寺有之証といたし可申候哉。類火之節古書等焼失仕、委細之儀者相分不申候。右之通申伝候。
開基権大僧都慶尊。承応元壬辰年霜月19日行年78才二而卒。
本堂、7間5間半。本尊阿弥陀如来木立像、開山親鸞聖人御影大形、一如上人御裏。聖徳太子真影従如上人御裏。三朝高祖真影、宣如上人御裏。右慶長19寅年12月7日染筆と有之。常如上人真影、一如上人御裏。真如上人真影、従如上人御裏。阿弥陀如来御影、源信和尚筆。
以上乙酉書上(御府内寺社備考より)
等覚寺の周辺図
参考資料
- 「浄土真宗東派明細簿」
- 御府内寺社備考