無量山福寿院|台東区橋場にある曹洞宗寺院
福寿院の概要
曹洞宗寺院の福寿院は、無量山と号します。福寿院の開創年代等は不詳ながら、総泉寺十世粛州嶺巌大和尚(万冶2年1659年寂)が開山したといいます。
山号 | 無量山 |
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院号 | 福寿院 |
寺号 | - |
住所 | 台東区橋場1-16-2 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福寿院の縁起
福寿院の開創年代等は不詳ながら、総泉寺十世粛州嶺巌大和尚(万冶2年1659年寂)が開山したといいます。
江戸橋場総泉寺末 浅草橋場町
無量山福寿院 境内1700坪内拝領地351坪、年貢地1349坪。
起立不知。
開山総泉寺10代粛州嶺巌大和尚、遷化万冶2年8月9日。
開基俗名町人長嶋宗仲、村松伊勢実父。法名大照院覚翁久意居士、寛文11年5月12日。
本堂、本尊聖観音立像、丈2尺余鳥仏師作与申伝。(御府内寺社備考より)
福寿院所蔵の文化財
- 安藤東野墓(東京都指定文化財)
- 木造観音菩薩立像(台東区登載文化財)
安藤東野墓(指定昭和17年9月)
江戸時代の儒学者。名は煥図、字は東壁、仁左衛門と称し、東野と号していた。元滝田氏といい、天和3年(1681)1月28日下野那須郡黒羽に生まれた。父大沼玄佐は医師として下野黒羽藩大関家に仕え、彼は次子であったが幼くして父を失い江戸に移った。ここで太宰春台とともに中野撝謙の門に学び、後に安藤氏に養われ、これより安藤氏を称した。柳沢吉安に仕え荻生徂徠に就いて詩文を学ぶ。たまたま将軍綱吉が柳沢邸に来た時講義したという。正徳元年(1711)29歳の時に致仕し駒込白山に隠居した。のち河内西代藩主本多忠統の賓師となったが、肺を病み、享保4年(1719)4月13日37歳で死去した。著書「東野遺稿」は没後友人が編集して刊行したものである。
木造観音菩薩立像(登載平成10年度)
橋場福寿院の観音菩薩像頭部は平安時代後期の作で、「定朝様式」という仏像彫刻の特徴をそなえています。
定朝とは、11世紀初め頃の京都の仏像彫刻師(仏師といいます)です。代表作は、宇治平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像。丸顔のおだやかな表情に、どっしりとした体格をそなえていることが、大きな特徴です。
定朝の彫刻は、時の権力者藤原道長・頼通親子をはじめ貴族たちに好まれたため、定朝は大きな工房を構え、多くの弟子たちとともに仕事を行っていました。ちなみに、平等院鳳凰堂の壁面を飾っている51躯の雲中菩薩群は、定朝の弟子たちが制作したものです。
このように、定朝が確立し、その弟子たちが継承した仏像彫刻の作風を「定朝様式」といいます。以後、定朝様式はわが国の仏像彫刻の主流となり、鎌倉時代に独自の作風を確立した運慶・快慶らにも大きな影響を与えています。
福寿院の観音菩薩像頭部は、ゆるやかな肉取りに丸みをおびた面相、温和な顔立ちなどに定朝様式の特徴が出ています。しかしながら、定朝様式初期の作品に比べ、やや形式化した作風となっています。したがって、この頭部の制作年代は、定朝の活躍時期よりも半世紀から1世紀を経た西暦1100年頃、定朝様式を受け継いだ仏師が制作したものと思われます。
本像の頭部は、形式化が始まっているとはいえ、定朝様式が顕著に表れた遺品のひとつとしてたいへん貴重です。
福寿院の周辺図