常福寺|台東区寿にある天台宗寺院

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清瀧山常福寺|津軽越中守信牧が開基、藩主以外の津軽家の菩提寺

常福寺の概要

天台宗寺院の常福寺は、清瀧山不動院と号します。常福寺は、津軽越中守信牧(法名津梁院殿権大僧都寛海)が開基となり、天海大僧正の弟子大僧都法印本祐が開山となり、廓内の竜ノ口に創建、寛永年間に当地へ移転したといいます。津軽越中守信牧は本祐と師檀の誓約をしていたことから、上野津梁院は藩主家の菩提寺と、当寺は藩主以外の津軽家の菩提寺となったといいます。

常福寺
常福寺の概要
山号 清瀧山
院号 不動院
寺号 常福寺
住所 台東区寿2-6-3
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -





常福寺の縁起

常福寺は、津軽越中守信牧(法名津梁院殿権大僧都寛海)が開基となり、天海大僧正の弟子大僧都法印本祐が開山となり、廓内の竜ノ口に創建、寛永年間に当地へ移転したといいます。津軽越中守信牧は本祐と師檀の誓約をしていたことから、上野津梁院は藩主家の菩提寺と、当寺は藩主以外の津軽家の菩提寺となったといいます。

御府内寺社備考による常福寺の縁起

江戸上野東叡山末 浅草新堀端
清滝山不動院常福寺、境内古跡拝領地六百三拾坪内門前町屋百坪余
当院最初者御曲輪内於竜ノ口寺院并不動堂并稲荷社等造立、其後芝口御門ニ而代地被下置、其後八町堀ニ而代地被下置、其後只今之浅草新堀端ニ而地面被下置候者寛永年中ニ可有御座候。年月時日聢と相分り不申候。右寺院度々造立之義は由緒有之。津軽家施主二御座候。其後連綿今以津軽家より寺院再建修復向共二扶助ニ候。仏供料高百石寄附ニ御座候。
当院由緒之義は、開山本祐と申僧、東叡山開山南光坊天海大僧正之弟子ニ御座候。津軽家先祖越中守信牧ト申江南光坊懇意ニ付、於御当地菩提所取建候様、被相勧、其節本祐と師檀之誓約有之。初而天台宗ニ越中守被相成候。国元ニ而は禅宗ニ而御座候。扨寺地竜之ロニ而拝領常福寺之寺号是より初り申候。夫より所々江引越只今之新堀端にて地面被下置候は、寛永年中ニ御座候新堀無之節にて浅草常福寺と唱申候。越中守信牧死後、当寺江送葬有之。存生之内南光坊と師弟約諾有之。津梁院殿権僧都寛海と牌面相定り候。於 公儀東叡山御建立之砌、山門三千之衆徒ニ習ひ、三十六坊御建立ニ付、諸大名方一院宛御建立有之候。其節当院開山本祐は隠居致シ惟今之上野津梁院之地面は、津軽家下屋敷にて有之候を少々借用いたし、庵室しつらひ罷在候由。右庵室を一院ニ取建度津軽家江申立、津梁院殿之牌号を直ニ寺号こいたし、只今之津梁院之開祖と相成申候。当院二代目本受代ニ上野は地面も宜敷浅草は水附と申事ニ而津梁院殿を改葬ニ相成申候。夫より津軽家家督之殿は、津梁院江葬ル。其余は当寺江罷参候故、いつとなく末寺之方本寺之様ニ相成候。
乍去常福寺儀は、津軽家より住職交代被願上万端往昔之通之取段ニ御座候。住職代り之節は、御門主御方江被申立候。文言ニ浅草常福寺義は拙者由緒有之菩提所ニ有之候。此度住僧老衰ニ付、弟子誰江後住申付、介抱為致度存候旨直名ニ而被申立候由緒と申筋合荒増如此二候。
宝暦六年迠は、黒衣御末寺席と云よし兼而津軽家より寺格之事被存寄居由。然ル処同年冬津軽家より宮様江御頼ニ而大寺二相成候よし。然ル上は向後仏供料高百石を寄附可致由。其書面弐通有り下二出ス。
開山権大僧都法印本祐南光坊天海大僧正之弟子慶長十七年住職正保四年示寂。
中興慈探(当寺六世)覚延二年三月十九日
開基津軽越中守信牧津梁院殿権大僧都寛海寛永八年正月十四日卒。
本堂
本尊阿弥陀如来坐像、丈一尺八寸
千手観音木立像、丈一尺五寸
慈恵大師木坐像
両部大日如来画像
歓喜天立像
不動明王、坐像丈六寸弘法之作
弁財天、座像丈三寸許作同上
文殊、座像丈五寸
護国権現。右神体無之津軽三代目妙心院殿之事也。土佐守信義上野へ伺之上護国之号を門主より付らる。本地として聖観音之画像を安ス。
妙見、丈二寸五分
以上九体内仏二安置。
什宝
一七条袈裟(唐織雲二鳥類白茶地)
右ハ大仏養源院慈天大僧正より当寺中興六世ニ而慈探江被遣候品也。慈天は津軽三代目信義之弟ニ而慈眼之弟子故慈天といふよし。袈婆ハ元来津軽家より慈天江被進候品なるべし。其地性上品之者也。当寺ニ而第一之什宝とす。
津軽家書面弐通(書面省略)
此寄附より己前は合力と申事ニ而其数不定之よし。尚当住職五年程以前より五拾石増被遣候よし、是は永代と申儀ニもあらすといふ。
稲荷社神体立像丈一尺二寸
表門二並有之。寅年類焼。当時仮寓毎歳初午二湯立之神事有之候。
新堀端切割之節境内坪数之内、五拾壱坪余被召上、追而代地可被下由申伝候。
以上乙酉書上
開山大僧都法印本祐正保四年丁亥十月甘四日寂(改撰江戸志)(御府内寺社備考より)

常福寺の周辺図


参考資料

  • 御府内寺社備考