普照山正定寺|台東区松が谷にある浄土宗寺院
正定寺の概要
浄土宗寺院の正定寺は、普照山受光院と号します。正定寺は、清蓮社浄誉上人伝国和尚(元和3年寂)が開山しました。神田元岩井町から下谷へ、正徳4年に三十三間堂跡地となっていた当地へ移転しました。
山号 | 普照山 |
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院号 | 受光院 |
寺号 | 正定寺 |
住所 | 台東区松が谷2-1-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
正定寺の縁起
正定寺は、清蓮社浄誉上人伝国和尚(元和3年1617年寂)がとなり神田元岩井町に慶長18年(1613)創建、正徳4年(1714)に三十三間堂跡地となっていた当地へ移転しました。
御府内寺社備考による正定寺の縁起
芝増上寺末 浅草新堀 普照山受光院正定寺、境内拝領地900坪余、門前町有之
慶長十八癸丑年其頃神田元岩井町辺二罷在候由、寛永甲申年右地御用地二相成、同年下谷二替地被下置候。右地又々御用地二相成、正徳四年当地三拾三間堂跡二而九百坪余替地被下置候。
開山清蓮社浄誉上人伝国和尚、元和三巳年八月十五日寂。
中興顕蓮杜高誉上人専哲和尚、元文五申年五月十一日寂。
仮本堂。本尊阿弥陀如来木像、長3尺行基菩薩作之由。二祖大師木立像。地蔵尊木立像。阿弥陀如来木座像。
鎮守万瀬姫稲荷杜。右は先前近江源氏万瀬姫稲荷与申伝候。
以上乙酉書上(御府内寺社備考より)
正定寺所蔵の文化財
- 島田虎之助の墓(台東区登録文化財)
- 伊豆長八の墓(台東区登録文化財)
島田虎之助の墓
虎之助は直心影流島田派の剣客。文化11年(1814)に豊前国中津(現大分県中津市)藩士、島田市郎右衛門親房の子として生まれた。十歳境から、中津藩剣術師範堀十郎左衛門の道場で学んだ。上達が早く数年後には、藩内で相手になる者はいなかったという。十六歳の春および翌年には九州一円を武者修行し名声をあげた。
天保9年(1838)に江戸へ出て、男谷清一郎の内弟子となった。一年余で、師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。同十四年、東北方面に武者修行の後、浅草新堀で道場を開く。その道場には、勝麟太郎(のちの海舟)も通った。
虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれたが、嘉永5年(1852)9月16日に39歳で病没。墓碑には、「余、哀歎ほとんど一臂を失うごとし」と男谷精一郎の銘文が刻まれている。(台東区教育委員会掲示より)
伊豆長八の墓
長八は鏝絵を描き、「異本日本絵類考」に、「最古の技に長ぜり」「柱等に種々に絵画を泥装するをもて、専門の業となし、又花瓶額面等に、花井鳥獣の形を塗る、世人以て絶妙の技となす」と評された人物。鏝絵とは漆喰を塗った上に・鏝で絵を描き出したもので、石灰絵ともいう。
文化12年(1815)8月5日、伊豆国松崎で誕生した。俗に伊豆長八と呼ばれ、世に知られた。天保元年(1830)に江戸へ出て、左官棟梁源太郎の弟子となった。修行のかたわら、狩野派の画法を学び、乾道と号した。また晩年には仏教学も学んで天佑と号したという。明治3年(1870)に名字の名乗りが許されると、最初上田と名乗り、後に入江と改姓した。 明治22年10月8日に78歳で、深川に没すると、遺骨は正定寺に埋葬され、同時に松崎の浄感寺にも分骨された。
正定寺の墓石には、「入江家先祖の墓」と刻まれ、岩には「深川播磨屋」と養家の家号が刻まれている。(台東区教育委員会掲示より)
正定寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考