時雨岡不動堂|台東区根岸にある真言宗智山派寺院

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時雨岡不動堂|圓明山西蔵院の境外仏堂

時雨岡不動堂の概要

真言宗智山派寺院の時雨岡不動堂は、圓明山西蔵院の境外仏堂です。時雨岡不動堂は、福生院の舊地に植えられていた根岸の大松と称されていた御行の松の根本近くに、岡田左衛門が、先祖の襟掛・伝文覚上人作の不動像を石櫃に納めて埋め、上に石造不動像を安置、その子孫安兵衛が宝暦年間(1751-1764)に更に遺書などを納め、その上に大きな石造不動尊を建立したといいます。その後破却されてしまったものの、文化3年(1806)貞照比丘尼が不動堂を願主となり建立したといいます。御行の松は、寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したとも伝えられ、「江戸名所図会」にも描かれるほど著名でしたが、環境悪化により枯死、松根を掘り出し、不動明王像が制作され、また松根の一部が保存されています。

時雨岡不動堂
時雨岡不動堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
住所 台東区根岸4-9-5
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



時雨岡不動堂の縁起

時雨岡不動堂は、福生院の舊地に植えられていた根岸の大松と称されていた御行の松の根本近くに、岡田左衛門が、先祖の襟掛・伝文覚上人作の不動像を石櫃に納めて埋め、上に石造不動像を安置、その子孫安兵衛が宝暦年間(1751-1764)に更に遺書などを納め、その上に大きな石造不動尊を建立したといいます。その後破却されてしまったものの、文化3年(1806)貞照比丘尼が不動堂を願主となり建立したといいます。御行の松は、寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したとも伝えられ、「江戸名所図会」にも描かれるほど著名でしたが、環境悪化により枯死、松根を掘り出し、不動明王像が制作され、また松根の一部が保存されています。

新編武蔵風土記稿による時雨岡不動堂の縁起

(金杉村)
不動堂
時雨岡不動と號す、縁起は御行松の下に出す、福生院持、
御行松
堂傍にあり、高さ二丈餘周囲三圍に及ふ、或は大松とも呼、舊井あり洗垢離の水と云、此松につきさまさまの説あり、弘法大師此地にて大日不動の修法を行せりと、或は康平の頃源頼義治承の頃頼朝等の故事及文覺行なせし所とも云傳ふ、元来此所は福生院の舊地にて、世代の墳墓今も此所にあり、先の年岡田安兵衛と云もの先祖左衛門か襟掛及文覺が作れる不動を石櫃に納め、此松のもとに埋め、上に石像の不動を置しか、其子孫安兵衛寶暦中先祖の遺書等の入し一櫃を再ひ彼襟掛不動の入し石櫃の内に蔵め、新に大像の石不動を建立し、境内頗る景致をなせしに、故ありて廃却せられ、石像のみ松根にありしを、文化三年貞照といへる比丘尼本願となり、公に乞奉り不動堂を建立して、松根の不動を遷して安すと云、
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福生院
同宗(新義眞言宗)出羽國湯殿山大日坊末、今其山の役寺なり、本尊大日、當寺元和九年までは村内御行松の邊にあり、開山満海寛永五年九十六歳にて寂す、ある時東照宮寺領を賜はるへしと仰ありしか、満海出家は三衣一鉢にて足れりとて辭し奉りければ御感ましましけりと云、(新編武蔵風土記稿より)


時雨岡不動堂所蔵の文化財

  • 御行の松

御行の松

江戸期から根岸の大松と人々に親しまれ、「江戸名所図会」や広重の錦絵にも描かれた名松。現在の松はその三代目である。
初代の松は、大正十五年に天然記念物の指定を受けた当時、高さ一三・六三m、幹の周囲四・〇九m、樹齢三五〇年と推定された。枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたという。しかし、天災や環境悪化のため昭和三年に枯死。同五年に伐採した。
二代目の松は、昭和三十一年に上野中学校敷地内から移植したが、これも枯死してしまい、昭和五十一年八月、三代目の松を植えた。戦後、初代の松の根を土地中より掘り出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で掘った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されている。
御行の松の名の由来に定説はないが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれる。また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれた。(台東区教育委員会掲示より)

時雨岡不動堂の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿

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