安立寺|台東区谷中にある日蓮宗寺院

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安立寺|台東区谷中にある日蓮宗寺院

安立寺の概要

日蓮宗寺院の安立寺は、常観山と号します。安立寺は、京都本法寺鶴林院日養が、自身の隠居寺として寛永7年(1630)に創建したといいます。

安立寺
安立寺の概要
山号 常観山
院号 -
寺号 安立寺
住所 台東区谷中5-3-17
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



安立寺の縁起

安立寺は、京都本法寺鶴林院日養が、自身の隠居寺として寛永7年(1630)に創建したといいます。

「下谷區史」による安立寺の縁起

安立寺(谷中上三崎北町三〇番地)
京都本妙寺末、本尊十界曼荼羅。常親山と號す。鶴林院日養(明暦三年六月十四日寂)の鐘醫七年六月に開基するところである。境内日親堂には鍋冠日親上人像が安置してある。又茶道宗匠川上不白の墓がある。(「下谷區史」より)

御府内寺社備考による安立寺の縁起

京都本法寺末 谷中不唱小名
常観山安立寺。境内東叡山
草創之儀ハ寛永七年。元来鶴林院日養閑居之地二御座候。
開山本山十六世鶴林院日養、明暦三丁酉年六月十四日遷化。
客殿。本尊宗法之通、諸尊安置。
椎鐘。右、銘文左之如し。
鐘銘
檀家安立 寺門自成 斯喜可志
以為寺名 心地信原 柱礎何傾
梵舎梢備 法器未盈 川崎勝田
新鋳華鯨 告法集衆 叫調報瞑
聲徹九よう 响満八絃 人天眠覺
緇素夢驚 偉哉此器 廣驚迷情
二音所振 萬民邦寧
享保三竜宿戊戊季夏上院八
亨壽水哉翁謹述
開山堂
日親木像、長ヶ一尺厨子入。日親骨、厨子入。
三十番神堂
稲荷社
坊跡、先年焼失跡
以上丙戊書上
御府内寺社帳に、借地古跡境内表五拾三間、裏へ弐拾八開、此内裏拾間ニ、裏弐拾八間ハ玉林寺地内借り罷在候。表四拾三間、裏へ弐拾人間ハ、明和三年二相添申候と有。しかれとも、玉林寺より借地のことハ、これなきよし寺僧話なり。(捜索)
開山日親上人、寺中英応院。(江戸志)(御府内寺社備考より)


安立寺所蔵の文化財

  • 下村観山墓(台東区有形文化財)

下村観山墓

明治から昭和初期にかけての画家。本名は晴三郎。明治6年和歌山に生まれる。幼少から絵を好み、14年上京。加納芳崖。橋本雅邦に師事。ついで東京美術学校に学び、27年卒業、同校助教授となった。31年、岡倉天心の日本美術院創立に参加し、菱田春草、横山大観らと活躍した。その後、教授に復職。また、文部省留学生としてヨーロッパに渡り、38年帰国する。
当時日本美術院は不振の難局にあり、天心がその絵画部を茨城県五浦(北茨城市)に移したとき、観山も大観らと同所に転居した。明治40年第一回文展に「木の間の秋」を出品、好評を得た。45年、五浦を引き上げ、新居を横浜にかまえた。
大正2年岡倉天心が没し、翌3年大観らと日本美術院を再興、現代日本美術の発展に寄与した。観山は多くの名作を発表したが、なかでも歴史を題材としたものを得意とし、「弱法師」は代表作である。昭和5年5月、58歳で没した。(台東区教育委員会)

安立寺の周辺図


参考資料

  • 御府内寺社備考
  • 「下谷區史」