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長安寺|谷中七福神の寿老人、台東区谷中にある臨済宗妙心寺派寺院

長安寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の長安寺は、大道山と号します。長安寺は、老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番札所、谷中七福神の寿老人です。

長安寺
長安寺の概要
山号 大道山
院号 -
寺号 長安寺
住所 台東区谷中5-2-22
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 谷中七福神の寿老人、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場22番札所



長安寺の縁起

長安寺は、老山和尚禅師(享保9年1724年寂)が開山、長安軒として安藤右京亮屋敷内に創建、正徳2年(1712)大道山長安寺の寺号が認められ、当地に移転したといいます。

御府内寺社備考長安寺の縁起

京都妙心寺末 谷中中門前
大道山長安寺、境内古跡東叡山年貢地287坪
起立之儀は、宝永元年(1704)其後正徳2壬辰年(1712)。 厳有院様三十三回御忌之節、願之適安藤右京亮殿於御宅二古跡被 仰付候。尤元長安軒与唱候処、其節願之通大道山長安寺与御免被 仰付候。
開山老山和尚禅師、享保9年遷化。
客殿 本尊千手観音座像。
十六羅漢堂、羅漢座像丈1尺5寸。
寿老人堂、寿老人座像丈3尺5寸。
地蔵堂。鎮守稲荷社。
以上丙戊書上
正徳2辰12月改古跡年貢地境内255坪谷中安善寺。御府内寺社帳。
開山老山和尚、享保9年甲辰正月19日寂せり。中興を要開和尚と云。安永3年甲午6月10日化す。
古碑一基。其文に右仰普広之弘通条弟子之遷善乃至法界利益不限 正安2年庚子2月5日比丘妙阿敬としるす。側に入木道大祖十代之祖参議経尹卿之筆跡也。末流尹詳書と有。此尹詳ハ森伝右衛門といへる人にて此近きほとりにおれり。入木の道に鍛錬なりしこと世の人しる所なり。以上改撰江戸志
長安軒といひし頃ハわつかの庵室にて下谷にありしと云。捜索(御府内寺社備考より)


長安寺所蔵の文化財

  • 長安寺板碑(台東区登載文化財)
  • 狩野芳崖墓(台東区登載文化財)
  • 紺紙金字大般若波羅蜜多経巻第四百三十一(台東区登載文化財)

長安寺板碑

死者の菩提を弔うため、あるいは生前に自らの死後に供えて供養を行う(逆修という)ために建立した、塔婆の一種。板石塔婆・青石塔婆ともいう。関東地方では秩父地方産の緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用い、鎌倉時代から室町時代まで盛んに造られた。頂上を山形にし、その下に二段の切り込み(二条線)を造る。身部には供養の対象となる本尊を、仏像、または梵時の種字(阿弥陀如来の種字<キリーク>が多い)で表し、願文・年号等を刻んだ。
長安寺には、鎌倉時代の板碑三基・室町時代の板碑一基がある。
  1. 建治2年(1276)4月 円内にキリーク種字を刻む
  2. 弘安8年(1285)8月 上部にキリーク種字を刻む
  3. 正安2年(1300)2月 「比丘尼妙阿」と刻む
  4. 応永3年(1396)正月 上部に阿弥陀三尊の種字を刻む
長安寺の開基は、寛文9年(1696)とされ、同寺に残る板碑は、開基をさかのぼることおよそ400年も前である。長安寺開基以前、この地には真言宗の寺があったと伝えられ、これらの板碑と何らかの関連があったと思われる。
平成3年台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。(平成8年7月)

狩野芳崖墓(台東区史跡)

明治初期の日本画家で、文政11年(1828)長府藩御用絵師狩野晴皐の長男として、長門国長府(下関市)に生まれる。19歳の時江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事。橋本雅邦とともに勝川院門下の龍虎とうたわれた。
明治維新後、西洋画の流入により日本画の人気は凋落し、芳崖は貧窮に陥ったが、岡倉天心や米人フェノロサ等の日本が復興運動に加わり、明治17年第二回内国絵画共進会で作品が褒状を受け、次第に当時の美術界を代表する画家として認められた。芳崖は狩野派の伝統的な筆法を基礎としながら、室町時代の雪舟・雪村の水墨画にも傾倒、さらには西洋画の陰影法を取り入れるなどして、独自の画風を確立した。その代表作「悲母観音図」「不動明王図」(ともに東京藝術大学蔵)は、いずれも重要文化財である。
明治21年、天心・雅邦とともに東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の創設に尽力したが、開校間近の同年11月、61歳で没した。
墓所は長安寺墓地の中ほどにあり、明治20年没の妻ヨシとともに眠る。また、本堂前面には芳崖の略歴・功績を刻んだ「狩野芳崖翁碑」(大正6年造立)が建つ。
平成5年、台東区史跡として、区民文化財台帳に登載された。(台東区教育委員会より)

紺紙金字大般若波羅蜜多経巻第四百三十一

大きさは、縦25.1cm、横870.9cm。表紙に宝相華文、見返しに「霊鷲山釈迦説法図」がそれぞれ金泥で描かれ、本文は紺紙に銀罫を施し、金泥で写経されています。この形態を持つ経文を「中尊寺経」と呼び、本図のようにしばしば見返しに釈迦説法図が描かれ、平安時代後期に制作されました。金泥が仏画に用いられはじめるのは中世になりますが、経文のみは例外でほとんどが金や銀の泥で描かれます。「宝相華文」は、奈良時代に発生し平安時代に装飾文様として盛んに使用された、空想の花をかたどった文様です。
奥州平泉において藤原氏3代が、独自の文化を形成しその遺品が今でも残っていますが、中尊寺経もその一つです。その名は、藤原氏の菩提寺の中尊寺に奉納したことから名付けられました。現在中尊寺には2739巻が所蔵されていますが、それ以外は一部の寺院に伝来したほかは散逸してしまいました。
本巻子は、三代藤原秀衡が発願した紺紙金字一切経の一つで、典型的な中尊寺経の様相を呈し、優秀な作品です。明治22年に長安寺の所蔵となりました。(台東区教育委員会より)


長安寺の周辺図


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