随龍山了俒寺|台東区谷中にある天台宗寺院
了俒寺の概要
天台宗寺院の了俒寺は、随龍山と号します。了俒寺は、随龍院殿正真日安大禅尼(松平但馬守の先祖)が開基となり、寛永元年(1624)当地に創建、当初日蓮宗の不受不施派に属しており、感應寺(現天王寺)九ヵ院の中でも唯一寺号を有する寺院でしたが、元禄11年(1698)不受不施の禁令により、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流、翌年感應寺(現天王寺)とともに天台宗に改められたといいます。
山号 | 随龍山 |
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院号 | - |
寺号 | 了俒寺 |
住所 | 台東区谷中7-17-2 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 墓地区画 |
了俒寺の縁起
了俒寺は、随龍院殿正真日安大禅尼(松平但馬守の先祖)が開基となり、寛永元年(1624)当地に創建、当初日蓮宗の不受不施派に属しており、感應寺(現天王寺)九ヵ院の中でも唯一寺号を有する寺院でしたが、元禄11年(1698)不受不施の禁令により、時の住職であった妙用比丘尼は入牢を命じられたのち配流、翌年感應寺(現天王寺)とともに天台宗に改められたといいます。
「下谷區史」による了俒寺の縁起
了俒寺(谷中天王寺町一四番地)
延暦寺派、本尊阿彌陀如来。慶安年間、感應寺(今の天王寺)の塔頭として日蓮宗随龍院正眞日安(明暦二年三月十三日寂)の開基するところで、元禄十一年十二月、妙用比丘尼不受不施派同意の罪によつて配流せられ、感應寺と共に寺院は天台宗に屬せしめられ、僧稟光を開祖として取立てられた。寺號ははじめ了俒院といひ、維新後獨立すると共に現名に改めた。今は塔頭ではないが天王寺末寺である。(「下谷區史」より)
御府内寺社備考による了俒寺の縁起
了俒寺。
当院起立相知不申候。
開基随龍院殿正真日安大禅尼松平但馬守先祖。
本尊阿弥陀如来、丈2尺6寸5分。
不動尊、丈1尺3寸5分。(御府内寺社備考感應寺項より)
了俒寺所蔵の文化財
- 中村正直墓(都指定文化財)
- 木造阿弥陀如来立像(台東区有形文化財)
中村正直墓
明治時代の教育者、啓蒙学者。天保3年(1832)幕臣中村武兵衛の子として江戸に生まれ、幼名を釧太郎、名を正直、号を敬宇という。昌平坂学問所に入り、佐藤一斎について儒学を学ぶ。慶応2年(1866)幕府の英国留学生派遣に取締として同行、英国市民社会の実情に触れた。
明治5年(1872)新政府に出仕し、大蔵省翻訳御用を務めるかたわら、翌年、家塾同人社を開いた。女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)校長就任、訓盲院の開設など女子教育、障害者教育にも力を注ぎ、東京帝国大学教授・元老院議官・貴族院議員も歴任した。
明治24年6月7日、60歳で病没。葬儀は神葬で行われた。
正直は、西周・神田孝平らと明六社を起こし、啓蒙思想の普及に務め、日本近代化に貢献した。
訳著書に「西国立志編」「自由之理」などがある。
了俒寺の周辺図
参考資料
- 御府内寺社備考
- 「下谷區史」