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二宮神社|あきる野市二宮の神社旧武蔵国二宮

二宮神社の概要

二宮神社は、あきる野市二宮にある神社で、武蔵国二宮でした。二宮神社の創建年代等は不詳ながら、鎮座地小川郷より小川大明神と称され、平将門の乱が起こった時、藤原秀郷が将門追討のため当地に参詣したといいます。平安時代に総社(国内の主要神社を合祀した社)が成立すると、武蔵国二宮とされたことから二宮大明神とも称され流ようになり、小田原城主北条氏政から社領500石の寄付を受け、滝山城主北条氏照も崇敬したといいます。天正19年(1591)徳川家康より社領15石の御朱印状を拝領、明治期に郷社に列格したといいます。

二宮神社
二宮神社の概要
社号 二宮神社
祭神 国常立尊
相殿 -
境内社 伊勢神社、八幡神社、八雲神社、天神社、諏訪神社、稲荷神社2社、荒波々伎神社、社宮社
住所 あきる野市二宮2252
祭日 9月9日
備考 -



二宮神社の由緒

二宮神社の創建年代等は不詳ながら、鎮座地小川郷より小川大明神と称され、平将門の乱が起こった時、藤原秀郷が将門追討のため当地に参詣したといいます。平安時代に総社(国内の主要神社を合祀した社)が成立すると、武蔵国二宮とされたことから二宮大明神とも称され流ようになり、小田原城主北条氏政から社領500石の寄付を受け、滝山城主北条氏照も崇敬したといいます。天正19年(1591)徳川家康より社領15石の御朱印状を拝領、明治期に郷社に列格したといいます。

東京都神社名鑑による二宮神社の由緒

創建年代不詳。往昔より小川大明神または二宮大明神と称した。小川大明神とは、その鎮座地が『和名抄』記載の武蔵国多摩郡小川郷の地区内にあったためで、また二宮大明神とは『神道集』または『私案抄』等にみられる武蔵総社六社宮(現大国魂神社)所祭神座の第二次にあるがため、その地名も二宮と称した。明治三年二宮神社と改称した。古記録によると藤原秀郷が己の生国近江国山王二十一社中の二宮を尊崇せる縁故をもって、特に当社を尊敬し、天慶の乱にさいし戦勝祈願をこめ、乱平定の奉賽として社殿、玉垣を造営、くだって源頼朝、北条氏政も崇敬篤く、ことに北条氏照滝山城主となり、同氏の祈願所とした。爾後社殿、神官宅罹災により記録の大半が焼失。天正十九年(一五九一)徳川家康より御朱印十五石を受け、以後代々継承されてきた。(東京都神社名鑑より)

「秋川市史」による二宮神社の由緒

二宮神社 二宮二二五二番地
二宮神社は、古くから西多摩郡内で、知られた古社であった。秋留台地の東南のはずれ、遠望できる社叢の中に鎮座している。
御祭神は国常立尊である。創建年代は不詳であるが、昔より小川大明神又は二宮大明神ととなえていたが、明治三年(一八七〇)二宮神社と改称したのである。
この神社の境内には、縄文時代早期以来の各年代の遺跡が重なりあっている。「新編武蔵風土記稿』にも「社地より布目の紋ある古瓦を掘出す事まゝありと云へり」とある。
二宮神社の起源は相当古いとみてよいであろう。小川大明神と古くからいわれていたことは、この神社が、多摩郡小川郷の鎮守であったことをうかがわせる。二宮大明神となったのは、この神社が、二宮といわれるようになってからであろう。
社伝によれば、日本武尊が御東征の折、国常立尊を祀った天慶二年(九三九)平将門の乱が起こった時、藤原秀郷が将門追討のため当地に来たことがあった。たまたま生国近江の山王二十一社の二宮は、御祭神が国常立尊で当社の御祭神と同じであったので、当社を尊敬し、戦勝祈願をこめた。乱平定の奉賽として社殿、玉垣を造営したという。
後、源頼朝より社領千石寄付されたというし、くだって戦国時代になって、小田原城主北条氏政から社領五〇〇石を寄せられ、一族の滝山城主北条氏照の祈願所となった。その後天正十九年(一五九一)には、徳川家康より御朱印一五石を受け、以後代々の将軍に引き継がれた。
平安時代、十世紀初めごろになって、総社の制が生まれた。総社は国司が国内の諸社の巡拝の便から、考え出されたものであった。武蔵における総社がいつごろ成立したか明らかでないが、一宮から六宮までの六社がきめられ、その六か所の神社と国内の諸神を合わせ祀ったのが六所宮である。今の府中にある大国魂神社で国司が参拝し、崇敬したのである。それは六所大明神ともよばれていた。
その二宮として、小川大明神とよばれていた当社が選ばれたのである。当時布目の瓦などが出土するような社殿をもった神社であったのであるまいか。
中世になると、二宮大明神ともよばれ、薬師如来を本地仏として、「六所の随一」とよばれる大社となった。
深大寺(調布市深大寺)にいた僧長弁の「私案抄』の応永十九年(一四一二)の「二宮社頭妙経印板施入勧進」の文中に
当社小河大明神者、当国六所ノ随一、本地薬師之應跡也矣。
とある。
古代から、中世、近世にかけては神仏は混淆していたから、これらはあやしむに足らない。なお『新編武蔵風土記稿』には、社地に鐘楼があったことを記している。
鐘楼 社地の東にあり、口径二尺餘、長四尺五寸の鐘なり 銘に
武州多西郡貮宮大明神御寶前
奉鋳所蒲牢一供
抑華鯨者、元是海魚名也、嗚聲
寛永十七年九月九日
とある。この梵鐘は羽村町五ノ神の鋳物師渡辺、桜沢氏らの鋳たものであった。明治維新の神仏分離の折(明治四年<一八七一>十一月)売却されて、現在埼玉県所沢市久米の鳩峯八幡社の境内にある。
例祭日は九月九日である。「しょうがまち」といわれている。
神事には筒粥の神事がある。一月十五日早朝に行われる。米三合と三二本の篠筒一束とを粥に炊き上げ、篠筒を一本割って、農作物の吉凶を占うのである。
馬場洗い神事は七月十五日(元は七月七日)、御手洗の池の大掃除をした。昔はこの日には八王子市山田の広園寺から供献物の使者がきたという。
御手洗の池は境内の東南下にあり、昔からどんな早魁にも水のかれたことがなかった。山田の広園寺の後庭の池辺には二宮大明神の石碑がたてられていて、池の水は、この御手洗の池より分水供給を受けているという伝承があるという。毎年、馬場洗い神事の際は、広園寺の池の水も多少の濁りが表われたといわれる。
しょうが、さといも、牛の舌餅神饌。九月九日の例祭日の神饌で神饌の古態を伝えている。当社が縄文時代から続いている信仰の霊域であることから考えると、これらの神饌は、稲作農耕以前の畑作儀礼の性格が濃厚に残されているとみてよいのではないだろうか。「牛の舌餅」も形が牛の舌のように長楕円形のもので、九州薩摩半島西岸地方にその例がみられるがこの地方としては極めて稀なものであるという。これらの三種の神饌は日本の古層栽培文化複合の問題を提示していると『西多摩神社誌』はのべている。(「秋川市史」より)

新編武蔵風土記稿による二宮神社の由緒

(二ノ宮村)二宮明神社
野邊村の境にあり、野邊村と當村との鎮守なり、社領十五石の御朱印を附せらる、三間四方の社にて、前に拝殿あり、五間に二間、祭神は國常立尊なりと云、寛永及び萬治年中の棟札あり、其比修復ありしと見ゆ、例祭九月九日、神主野村出雲持、傳云この社は昔田原藤太秀郷武蔵國へ来りし時勧請せしと、古は社も荘厳なりしにや、社地より布目の紋ある古瓦を掘出す事ままありと云り、先年社再興の時土中より甕一つを掘出せり、甕中に銅の筒二つありて、其中に綿の如くなる紙あり、縁起など書たる者にや、甕は今も神主所持すれど、銅筒は紛失したりと云。
鐘楼。社地の東にあり、圓径二尺餘、長四尺五寸の鐘なり、銘に
武州多西郡貮宮大明神御寶前
奉鋳所蒲牢一供
抑華鯨者、元是海魚名也、鳴聲
寛永十七年九月九日
御手洗池。五間に十五間許の池なり、石階の下鳥居の側にありいかやう旱魃にも水涸るることなし、是を村民用水の助となせり。(新編武蔵風土記稿より)


二宮神社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「秋川市史」
  • 東京都神社名鑑