近藤勇生家跡|調布市野水の名所旧跡

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近藤勇生家跡の概要

近藤勇生家跡は、調布市野水にある名所旧跡です。近藤勇生家跡は、幕末に活躍した新選組局長近藤勇の生家(宮川家)跡地です。近藤勇は、当地の農民宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)として天保5年(1834)に生まれ、15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年周助の養子となり近藤勇と名乗っています。近藤勇は、慶応4年(1868)に板橋で処刑されましたが、勇の甥宮川勇五郎は首のない勇の遺体を引き取り、龍源寺ヘ埋葬されました。また当地には昭和初期に近藤神社が有志により建立されています。

近藤勇生家跡
近藤勇生家跡の概要
名称 近藤勇生家跡
みどころ  
区分 名所旧跡
住所 調布市野水1-6
備考 -




近藤勇生家跡の由緒

近藤勇生家跡は、幕末に活躍した新選組局長近藤勇の生家(宮川家)跡地です。近藤勇は、当地の農民宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)として天保5年(1834)に生まれ、15歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年周助の養子となり近藤勇と名乗っています。近藤勇は、慶応4年(1868)に板橋で処刑されましたが、勇の甥宮川勇五郎は首のない勇の遺体を引き取り、龍源寺ヘ埋葬されました。また当地には昭和初期に近藤神社が有志により建立されています。

近藤勇生家跡について(調布市指定史跡)

近藤勇生家跡
この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。
近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。
十五歳の時天然理心流近藤周助に入門、翌年理心流の目録を得て周助の養子となり近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周囲はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。(調布市教育委員会掲示より)

近藤神社について

近藤神社は、徳川将軍家のために、忠誠心を貫いた近藤勇を尊び、昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤勇の生家跡に建立された。
その後、荒れるにまかせていた社を一時別の場所に移設していたが、昭和五二年に生家跡が市の史跡に指定されたのを受けて、昭和五四年に戻したものである。(調布市観光協会掲示より)

近藤勇について

新鮮組局長近藤勇
天保五年(一八三四)十月九日、武蔵国多摩郡上石原村辻(現在の調布市野水一丁目)の宮川家に三人目の男子が生まれ、勝五郎と名付けられた。天保九年(一八三八)の上石原村「宗門人別五人組帳」によれば、宮川家は多摩郡大沢村龍源寺の旦那(檀家)で、家族備成は百姓源次郎(宮川家の当主は代々「源次郎」を名乗った)六十七歳を筆頭に、枠の久次郎四十歳(近藤勇の父)、娵のみよ三十七歳(勇の母)、孫の音次郎九歳、粂蔵七歳、勝五郎五歳の六人であった。宮川家は裕福な農民であったといわれているが、「宗門人別五人組帳」の記載をみる限りでは、石高は七石一斗二合で、上石原村では中間的な階層に属していた。
天然理心流入門、近藤家養子に
龍源寺にある「神文血判帳」(近藤周助の門人帳)によれば、宮川家の三兄弟は、嘉永元年(一八四八)十一月十一日に揃って天然理心流近蔵周助の門人となっている。嘉永二年六月に周助が宮川勝五郎に与えた目録も龍源寺にある。
同年十月十九日付けで周助から上石原村の源次郎(勝五郎の父)宛に養子縁組の書状が出され、勝五郎は入門後あまり時を経ずに天然理心流を継ぐため周助の養子となったことがわかる。養子になって周助の旧姓島崎を名乗り、名前も勝太と改めた。安政四年(一八五七)頃までには島崎勇となり、万延元年(一八六〇)三月に松井ツネと結婚した。その後、近藤勇を名乗り、文久元年(一八六一)八月、府中六所宮(大国魂神社)で天然理心流四代目襲名の野試合を行い、翌年には一人娘の瓊が生まれた。
浪士組に参加して京へ、そして新選組結成
文久三年(一八六三)二月、近藤勇は上洛する将軍徳川家茂警護のために編成された浪士組に道場の門人たちと共に参加したが、浪士組が江戸ヘ戻ることになった時京都残留の嘆願書を提出し、京都守護職の任にあった会津藩預かりとなり、京都市中の見回りに当たることになった。以降、慶応四年(一八六八)一月、隊士と共に江戸に戻るまで、当時政局の中心となっていた京都で新選組局長として活躍した。
近藤勇、板橋で死す
慶応四年三月、甲陽鎮撫隊が甲州街道を甲府ヘ向かう途中大久保剛と名を変えた勇は、上石原村の鎮守である上石原若宮八幡神社を遥拝して戦勝祈願、西光寺向かいの名主中村勘六家で歓待を受けたと伝えられている。甲州柏尾山で官軍に敗れ、その後、新たに隊士を募集して下総流山に陣をしいた。しかし、そこで官軍に包囲されて出頭、慶応四年四月二十五日に板橋において刑死した。勇の甥宮川勇五郎は、板橋の刑場で一局の鉄砲傷(慶応三年十二月伏見墨染付近で負傷)を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、上石原村の生家近くにある龍源寺ヘ埋葬した。勇の無言の帰還を一族の人びとは野川にかかる相曽浦橋で迎えたと伝えられている。龍源寺の近藤家墓所には勇の一人娘瓊と結婚して近藤家を継いた勇五郎やその息子の久太郎も眠っている。また、近くには勇のいとこで新選組隊士たった宮川信吉(勇の父久次郎の妹の子)の墓もある。(調布市・調布市教育委員会掲示より)


近藤勇生家跡の周辺図


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