西光寺|調布七福神の大黒天、多摩川三十三ヶ所観音霊場
西光寺の概要
天台宗寺院の西光寺は、長谷山聖天院と号します。西光寺の創建年代は不詳ながら、かつては聖天院と號す修験道の寺院だったといい、聖天坊応永三十四年(1427年)云々と記載のある書が江戸時代にあったといいます。慶安年間(1648-1651)には江戸幕府より寺領14石2斗の御朱印状を拝領、辨盛法印(延宝元年1673寂)が寛文年間(1661-1672)に天台宗に改めたといいます。多摩川三十三ヶ所観音霊場3番、調布七福神の大黒天です。
山号 | 長谷山 |
---|---|
院号 | 聖天院 |
寺号 | 西光寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 調布市上石原1-28-3 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
西光寺の縁起
西光寺の創建年代は不詳ながら、かつては聖天院と號す修験道の寺院だったといい、聖天坊応永三十四年(1427年)云々と記載のある書が江戸時代にあったといいます。慶安年間(1648-1651)には江戸幕府より寺領14石2斗の御朱印状を拝領、辨盛法印(延宝元年1673寂)が寛文年間(1661-1672)に天台宗に改めたといいます。
新編武蔵風土記稿による西光寺の縁起
(上石原宿)西光寺
境内除地、九百八十坪、宿の中程南側にあり、長谷山聖天院と號す、天台宗、郡中深大寺末なり、慶安年中寺領十四石二斗餘の御朱印を賜はれり、客殿九間に七間、本尊は弥陀を安ず。木の立身にて長二尺一寸、左右観音勢至各立身身長一尺二寸、その作を知らず、當寺の昔は聖天院と號せる修験の寺なりしに、寛文の比辨盛といへる僧、天台宗に改宗せるよし、その示寂は延寳元年十二月八日なりと云、私案抄に聖天坊応永三十四年丁酉十月二十日敬白とありしは、即ちこの聖天院のことなるべし、墓所に古碑三基あれども文字浸洵して讀がたし、古き梵地なる事知らる。
観音堂。本堂の前西に向ひてあり、三間に三間半、茅葺向拝五尺に九尺、高欄附、長谷山の三字を扁す、佐玄龍が筆なり、十一面観音木の立像にて、たけ一尺八寸、其作傳へず。
薬師堂。本像の巽の方にて北向にたてり、二間に二間半、茅葺、薬師は木の立像にて長九寸、古色にみゆれども作を傳へず、左右に十二神将を安す、木の立身にて各長五寸許。
稲荷社。本堂より西南の隅にあり、艮方に向へり、小祠にして覆屋あり、神體白幣なり。
楼門。表門を距離ること三十歩許にあり、二間に三間北に向ふ、二十垂木二手先造り高欄附、表の方左右には金剛力士を置けり、長各六尺許、楼上に鐘をかく、径り二尺五寸餘、これ近比のものなりと云ふ。
表門。両柱の間九尺ばかり、北向なり。(新編武蔵風土記稿より)
「調布市百年史」による西光寺の縁起
西光寺(上石原)
旧甲州街道に面している。
長谷山聖天院と号し天台宗、市内深大寺末である。
<本尊>阿弥陀如来(二尺一寸)。行基作と伝えられる立木像で、左右側立観音勢至。
本寺の開山は明らかでないが、大國魂神社宮司、猿渡家所蔵の『私案抄』に記載されている聖天院供養塔碑文の終わりに、「聖天坊法印、応永三十四年丁酉十月二十日敬白」とあるところから、応永年間(一三九四~一四二八)、聖天坊法印によって建立されたものといわれる。また永正年中(一五〇四~一五二一)法印実海という説もある。
昔は聖天院という修験寺で、真言宗に属していたが寛文(一六六一~一六七三)年間、弁盛法印が現在の天台寺宗に改めた。これより先、慶安(一六四八~一六五二)年間、徳川家光より寺領一四石二斗の御朱印を賜わり、旧幕時代は境内除地九八〇坪の御朱印寺であった。
宝暦(一七五一~一七六四)年間、時の住職恭弁法印の有縁にあたる旗本、長谷川五兵衛尉正明が当地に領地を賜ったとき、四恩報謝のため、堂宇建立を願い、恭弁とともにこれを完成した。
当時は本堂(九間に七間東向)・庫裡・観音堂(本堂の前西向、三間に三間半)・薬師堂(二間に二間半)・楼門・表門・稲荷祠・土蔵などを備え、威容を誇っていたが、惜しくも明治一二年一月一七日、本尊阿弥陀如来、観音勢至の側立十一面観世音、薬師如来の仏像および楼門・表門・土蔵を残し、大部分が焼失してしまった。
このとき残った表門と楼門は修理を加えられ現存(もとは草ぶきであったが、明治二七年鉄板に改造された)している。楼門は北に向かい、二重垂木二手先造りの勾欄つきで、表の左右には金剛力士が置いてある。楼上には径二尺五寸余りの梵鐘があり、朝夕つかれる梵鐘の音は親しまれたもであった。これは享保二年(一七一七)古鐘を改鋳したものといい、銘文があるが省略する。
仮本堂は昭和二二年の新築で、庫裡は類焼の後ただちに建築されたものである。
寺蔵のものには前記の仏像のほか、大聖歓喜天(享和元年-一八〇一-作)、涅槃像大軸(文久二年-一八六二-当山瑞明作)などがあり、境内には六地蔵・庚申塔・小観音堂・板碑(康永・明応・永正など)燈龍などがある。寺に続く墓地には『新編武蔵風土記稿』などにも見える旧家や名家の墓もある。(「調布市百年史」より)
西光寺所蔵の文化財
- 西光寺仁王門一棟(調布市指定有形文化財)
- 近藤勇坐像
西光寺仁王門一棟
この門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。
寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(一七〇四〜一〇)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。(調布市教育委員会掲示より)
新撰組局長近藤勇
近藤勇は天保五年(一八三四年)武蔵国多磨郡上石原村(現調布市野水一-六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜は大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸で江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。
会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号を贈りその功績を称えている。(近藤勇座像建立委員会掲示より)
西光寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
関連ページ