近藤勇の墓。会津若松市慶山天寧の名所旧跡

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近藤勇の墓。土方歳三らによって葬られたといわれる墓

近藤勇の墓の概要

近藤勇の墓は、会津若松市慶山天寧にある名所旧跡です。近藤勇の墓は、幕末期に京都守護職松平容保公の直属の支配下にあった新撰組の局長を勤めていた近藤勇の墓です。近藤勇は、勝沼の戦いで敗北後流山で捕らえられ、板橋で処刑され、首は三条河原にさらされました。その後その首(あるいは遺髪など)が、副長土方歳三らによって当地に葬られたといわれ、命日の4月25日には墓前祭が行われています。

近藤勇の墓
近藤勇の墓の概要
名称 近藤勇の墓
みどころ -
区分 史跡
住所 会津若松市慶山天寧
備考 天寧寺から徒歩、愛宕神社から徒歩



近藤勇の墓の由緒

近藤勇の墓は、幕末期に京都守護職松平容保公の直属の支配下にあった新撰組の局長を勤めていた近藤勇の墓です。近藤勇は、勝沼の戦いで敗北後流山で捕らえられ、板橋で処刑され、首は三条河原にさらされました。その後その首(あるいは遺髪など)が、副長土方歳三らによって当地に葬られたといわれ、命日の4月25日には墓前祭が行われています。

境内掲示による近藤勇の墓の由緒

近藤勇藤原昌宜之墓
天保五年十月九日武州調布町上石原(東京都調布市)の郷士宮川久次郎の三男として生る。幼名を勝太と謂う、自宅に道場を構え十五才にして天然理心流近藤周助の代稽古をつとめ当時近藤門下の麒麟児として近郷に名を馳せた。
師近藤周助は父宮川久次郎に懇請し勝太十七才の時養嗣子として迎える。元服して名を勇と改め剣理を究め後試衛館を継ぐ、塾頭に沖田総司、土方歳三、山南敬助、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、客分に永倉新八らを率いた。その後京に上り新撰組の母体となった。新撰組の活躍は文久三年から慶応三年に至る五年間である。中でも最も著名なものは新撰組最盛期の池田屋騒動である。長州の志士古高俊太郎の自白により、元治元年六月二十日を期して京都御所に火を放ち、その虚に乗じ朝廷を長州に奪行しようと企図し、同士が祇園祭を幸いに池田屋に集結謀議中を新撰組の察知する所となり、出動後世に残る大惨劇となった。
新撰組はその後伏見鳥羽の戦いに際し、伏見警備につくも新式火器の前に利なく敗走、海路江戸に集結残余の者をまとめて甲陽鎮撫隊を編成。勝沼の戦いで再び敗北、その後流山に集結していた。勇は大久保大和と称していたが元隊士加納道之助の密告により逮捕され、土佐藩谷千城の厳命により辞世二詩を遺して斬首の刑に処せられた。
会津守護職の直属であった新撰組隊長の首が松平容保公の居城の地に、副長土方歳三の手によって建墓された首塚と語り伝えられている。
一九七七年十月
会津若松ライオンズクラブ
参考資料 会津の他の墓所在地
東京都板橋区東口駅前(処刑の地)近藤勇昌宜・土方歳三義豊の墓
愛知県岡崎市本宿法蔵寺(首塚)貫天院殿純忠誠義居士
三鷹市大沢竜源寺心勝院大勇儀賢居士近藤勇之墓(当地掲示より)

萬松山天寧寺掲示による近藤勇の墓の由緒

近藤勇之墓
新撰組隊長近藤勇は、戊辰の役で奮戦中千葉で力つきついに薩長の手に捕えられ、首をはねられました。
遺体は東京三鷹市の龍源寺に埋葬されたが、首は京都の三条大橋下流にさらされた。しかし何者かが持ち去りこの地に埋めたと言われる。このお墓は、會津藩の手によって建立されたが、それは會津藩主容保公が京都守護職中、新撰組はその支配下にあり、挺身幕府のために力をつくした。
また、土方歳三など一行が會津に来て、戦闘に参加した際この墓を参詣したと伝えられる。
墓石には「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号と、その上に丸に三つ引きの近藤家の家紋が彫られている。
毎春4月25日の命日には、墓前祭が執り行われている。(萬松山天寧寺掲示より)


近藤勇の墓の周辺図


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