胎白山徳善院|日野市平山にある真言宗智山派寺院
徳善院の概要
真言宗智山派寺院の徳善院は、胎白山と号します。徳善院の創建年代は不詳ですが、永新編武蔵風土記稿に記載されていることから、江戸時代後期には既に創建されていたことが窺えます。
山号 | 胎白山 |
---|---|
院号 | 徳善院 |
寺号 | - |
住所 | 日野市平山5-1-5 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
徳善院の縁起
徳善院は、権大僧都亮秀が寛永元年(1624)当地に阿弥陀堂を建立、寛文元年(1661)良慶が大日堂を建立し胎白山徳蔵院と号したといいます。寛文9年(1669)第二世鑁慶は徳蔵院とは別に徳善院と号して創建、明治維新の際に徳蔵院を徳善院に合寺したといいます
新編武蔵風土記稿による徳善院の縁起
(平山村)徳善院
除地、一段十四歩、村の東によりてあり、新義真言宗高幡村金剛寺の末、開山及起立の年歴を傳へず、本尊大日坐像にて、長一尺五寸許、客殿七間に五間なり。
弥陀堂。境内にあり、二間半四方、弥陀は坐像にて長一尺程なり。(新編武蔵風土記稿より)
日野市史による徳善院の縁起
徳善院 平山五-一-二
胎白山と号し、真言宗智山派に属する。高幡の金剛寺末で、本尊は大日如来である。
寺に伝える『真言宗徳善院御縁起』によれば、開基は、寛永元年(一六二四)権大僧都亮秀が、この地に阿弥陀堂を建立した時にさかのぼるという。寛文元年(一六六一)良慶が現われ、大日堂を建立して大日如来を安居した。このとき旧来の阿弥陀如釆を併せ供養して、祈痛会を始めたという。良慶は寺院名を真言宗胎白山徳蔵院と名づけ、その第一世となった。寛文九年(一六六九)第二世鑁慶は徳蔵院を徳善院と改め、その第一世となって真言道場の興隆を図った。その後寺運も盛衰をたどったが、文政元年(一八一八)一月十世一乗は、無本寺であった徳善院を京都智山派に属せしめ、高幡金剛寺を本寺としてその末寺となった。
天保元年(一八三〇)九月第十一世盛雅が金剛寺より来て、本堂・仏像の一切を修復し、天保五年には平村寿徳寺から亮相が入り第十二世を継ぐ。弘化元年(一八四四)北野天竜寺より十三世泰浄が入り墓地の改革、本尊・本堂の修復などを行った。第十四世は高幡金剛寺朝倉玉雅和上が兼務、明治三年より隆印、同二十七年より日野薬王寺より道雅が入りそれぞれ留守をつとめ、同四十三年この道雅時代に本堂を建立する。同四十四年宣雅が第十五世を、遷化の後は秋山祐雅が第十六世をそれぞれ兼務した。昭和十九年金剛寺より弘裕が入り第十七世となり、本堂の修復、本尊大日如来の光背、阿弥陀如来の両肱、不動明王の全体、両大師像の全体修復、庫裡の新築等を行い、昭和三十六年五月二十八日落成した。同四十五年十一月二十日弘裕和尚遷化、同五十四年四月二十三日第十八世祐潮の代に本堂を改築落成した。
百草の元万蔵院由木家に伝わる安政二年(一八五五)の木曽村(町田市)天台宗覚円坊からの御触書写によれば、「原町田延命院御坊-図師大蔵院御坊-百草万蔵院御坊-平山徳蔵院御房江順達」とあって、徳蔵院が幕末に存在することを示す。また『七生村史』にも徳蔵院は明治初年廃寺となり、本尊や諸仏像は東隣りの徳善院に移されたとあり、徳蔵院は古くから徳善院の西隣りに存在し、明治初年の廃仏毀釈により廃寺となったと思われる。(日野市史より)
徳善院の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿
- 日野市史