日秀将門神社|我孫子市日秀の神社
日秀将門神社の概要
日秀将門神社は、我孫子市日秀にある神社です。日秀将門神社の創建年代等は不詳ながら、当地日秀は平将門が幼少のころ過した地で、承平2年(932)には軍用に供したと伝える古式の井戸も掘られており、平将門の三十三回忌に沼南町岩井に将門神社が祀られたのを機として、所縁のある地に将門神社が祀られるようになったといい、当社のその一つだといいます。
社号 | 将門神社 |
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祭神 | 平将門公 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 千葉県我孫子市日秀131 |
祭日 | - |
備考 | - |
日秀将門神社の由緒
日秀将門神社の創建年代等は不詳ながら、当地日秀は平将門が幼少のころ過した地で、承平2年(932)には軍用に供したと伝える古式の井戸も掘られており、平将門の三十三回忌に沼南町岩井に将門神社が祀られたのを機として、所縁のある地に将門神社が祀られるようになったといい、当社のその一つだといいます。
「我孫子市史」による日秀将門神社の由緒
将門神社
日秀では、天慶三年(九四〇)に戦没した平将門の霊が、遺臣たちとともに、明神下から日秀まで手賀沼を騎馬で渡り、沼のほとりの岡で朝日の昇るのを拝したといい伝えている。そして、その伝説の地に一宇を建てて霊をまつり、鎮守としたのが当社のおこりであるという。
平将門(九〇三-九四〇)の三女如蔵尼は父の三十三回忌に当る天録三年(九七二)に、ゆかりの地の岩井に将門の霊を祀った。それが沼南町岩井の将門神社であり、将門の神霊をそれぞれゆかりのある所にまつるようになったはじめであるという。
日秀は、将門が幼少のころ過したところで、神社の東方の低地には、将門が承平二年(九三二)に掘って軍用に供したと伝える古式の井戸の遺跡があって、将門の井戸とよばれている。また、日秀を日出と記した例があるが、それは将門が日の出を拝したところから出た地名ともいい、あるいは将門の遺臣の日出弾正がこの地に隠棲したのがおこりであるともいう。その「日出ひいで」を「日秀ひいで」と書き、「ひびり」に転訛したのであろうという説もある。ともかくも、日秀の地は将門の伝承とかかわりがあって、当社は旧日秀の村人に崇敬されてきた。それとともに、将門調伏の祈願が行われた成田山新勝寺には参詣しないなど、旧来の地元の人びとにはいろいろな禁忌の習俗がある。それが当所だけでなく、他の将門神社をまつる土地にもみられる古来からの習俗として共通する点が注目をひく。
社殿については、明治の「神社明細帳」に「社殿間数間口弐間奥行四間三尺」と記されている。「湖北村誌」の口絵図版にみえるのはそれであろう。屋根は茅葺で、寄棟造の棟が奥行(梁行)方向に長くなっているようにみえ、正面は隅軒の部分をわずかにのこして葺下げ、入口扉の霧除けとしているようである。正面の幅は二間分であるが、中央の柱を立てず、一間分を間口部として格子の引戸を備え、左右は半間分ずつの板壁となっている。
この社殿は老朽し、昭和三十年に石造の社殿に改められた。それが現在の社殿で、切石積の二重基壇を高く築き、石祠を安置する。石祠は、切妻造の正面の屋根を一部葺下げて向拝とし、身舎の床面より一段低い浜床に相当する平板石の面に、石柱の向拝柱をたてている。
鳥居について「湖北村誌」には「今尚木造の華表(鳥居)に七五三縄を張り渡して」とあって、大正時代には木造鳥居であった。それが石造の稲荷鳥居(台輪鳥居)に建て替えられ、柱の根本の部分は根巻になっている。
なお、当社には天保六年(一八三五)に調進された「奉納将門大明神」と染めた幟が伝承されている。(「我孫子市史」より)
日秀将門神社の周辺図
参考資料
- 我孫子市史
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