光明寺。横浜市南区庚台にある浄土宗寺院

猫の足あとによる横浜市寺社案内

吉上山光明寺。鎌倉光明寺教会所として明治11年創建、横浜三十三観世音霊場

光明寺の概要

浄土宗寺院の光明寺は、吉上山慈眼院と号します。光明寺は、鎌倉光明寺教会所として横浜市中区石川町に明治11年創建、明治21年当地の寄進を受け移転、明治32年正誉舜達が開山となり吉上山慈眼院光明寺と称して開山したといいます。横浜三十三観世音霊場10番です。

光明寺
光明寺の概要
山号 吉上山
院号 慈眼院
寺号 光明寺
住所 横浜市南区庚台66
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、鎌倉光明寺教会所として横浜市中区石川町に明治11年創建、明治21年当地の寄進を受け移転、明治32年正誉舜達が開山となり吉上山慈眼院光明寺と称して開山したといいます。

「南区の歴史」による光明寺の縁起

吉上山慈眼院光明寺
明治一一年一〇月鎌倉光明寺九八世住職馨誉玄信上人が、石川町七丁目にあった本尊聖観音を安置する観音堂を継承し、徒弟野瀬妙音尼に寺務をとらしめ、鎌倉光明寺教会所と称して、観音講社を結び布教に努めたのがはじめである。明治一八年三月、太田初音町の山手の静境を選び移転する。この地は、吉田健三の所有地であった。しかし、この地も漸次繁栄して商家は軒を並べ弦歌の声も聞ゆる状況となったので、明治二一年一〇月吉田健三の勧めによって南太田町一二九六番地の現在地に移転し、従来の本堂間口九間、奥行六間を移建、同年一一月一七日開堂式挙行。明治三二年三月二七日、鎌倉光明寺執事宮下舜達は、長谷観音が別当であった慈限院の名蹟を移し、山号は大檀越の吉田健三、上郎幸八の両名の頭文字一字をとって吉上山と号し、県庁から寺号公称の許可がおりた。明治四三年遠州可睡斉の住人大工頭梁鈴木某が工事中の本堂が略完成。。明治四四年四月二五日本堂落慶し、東京芝増上寺山内花岳院所蔵の阿弥陀如来並に両脇侍仏の寄贈をうけて安置した。大正五年従来の庫裡は民家を買収したもので間取不便で書院としての体裁に欠けていたので、遠州の鈴木頭梁の紹介で、総木曽檜材で建造した二階造間数一五の善美をつくした一家星を遠州より移築した、経費一万五千余円。大正一〇年一一月一五日洪鐘を新鋳する。同年基地一、五〇〇坪を購入する。大正一二年関東大震災によって書院、庫裡、鐘楼倒壊。本堂は傾斜。書院は関東大震災で倒壊した小田原御用邸(現城内小学校の地辺り、明治三四年一月新築)の一部の払下げを受け移建する。無憂の間、吉上の間、法雲の間、金蓮の間の四室の客殿と執事寮、学衆寮、知客寮もあって由緒ある建物の名残ほ今も残っている。開山正誉舜達は、弘化四年長野県に生まれ、万延元年、芝増上寺学寮に入り、研学ののち東京青山善光寺鎌倉千手院目黒長泉寺小金東漸寺の住職を経、昭和一二年、大本山光明寺一〇五世住職となった。昭和一五年六月二〇日九四才をもって遷化した。法名慈教光院覚蓮社贈大僧正正誉順阿法雲舜達大和尚。(「南区の歴史」より)

光明寺所蔵の文化財

光明寺の書院は、小田原御用邸の常宮御座所を移築したもので国登録有形文化財となっています。

  • 光明寺書院(国登録有形文化財)

光明寺の周辺図


参考資料

  • 「南区の歴史」(南区の歴史発刊実行委員会)