稲荷山源長寺|千住七福神の寿老人
源長寺の概要
浄土宗寺院の源長寺は、稲荷山勝林院と号します。源長寺は、慶長三3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次を勧請開基とし、圓誉不残(元和3年寂)を開山に迎えて慶長15年(1610)創建したといいます。境内の地蔵尊は千住七福神の寿老人です。同院寺号を持ち、関東郡代伊奈備前守忠次を開基とする赤山源長寺が川口市にあります。
山号 | 稲荷山 |
---|---|
院号 | 勝林院 |
寺号 | 源長寺 |
住所 | 足立区千住仲町4-1 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
源長寺の縁起
源長寺は、慶長三3年(1598)当地を開拓した石出掃部亮吉胤が、郡代伊奈備前守忠次を勧請開基とし、圓誉不残(元和3年寂)を開山に迎えて慶長15年(1610)創建したといいます。
足立区教育委員会掲示による源長寺の縁起
浄土宗稲荷山勝林院源長寺と号す。慶長三年(1598)この地に住み開拓した石出掃部亮吉胤により、同十五年(1610)一族の菩提寺として開かれたが、千住大橋架橋等に尽くした郡代伊奈備前守忠次を敬慕してそのその法名にちなむ寺号を付して開基としている。本尊は、阿弥陀如来。
墓地に、石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)大阪冬の陣西軍の武将矢野和泉守墓、女行者心静法尼墓、三遊亭円朝が心静に報恩寄進した石燈籠、その他千住宿商家の墓碑が多い。また草創期の寺子屋師匠だった多坂梅里翁の筆子塚、一啓斎路川句碑等がある。(足立区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による源長寺の縁起
(掃部宿)源長寺
浄土宗、入谷村源證寺末、此地もと稲荷の社地なりしを、慶長十五年石出掃部亮吉胤草創し、伊奈備前守忠次に譲りて開基と稱す、故に地主神の號を取て稲荷山と號す、忠次が法諡を以て寺號とす、院を勝林と云、昔は松林と書しとぞ、開山僧圓誉不残元和三年九月三日寂す、本尊弥陀は慈覚大師の作にて、もと秩父郡三峯山に納し火盗両難除の像なりといへど、當寺に傳来する故を詳にせず。
稲荷社。壽稲荷と號す、天文十六年五月鎮座すと云、社内に聖徳太子の像を安ず、この像は太子十六歳の姿にして、蘇我の馬子が作なりと、元は蕨宿三学院の本尊なりしを、故ありてここに移せりと云。(新編武蔵風土記稿より)
足立風土記資料寺院明細による源長寺の縁起
源証寺末 東京府管轄武州足立郡千住 稲荷山源長寺。
慶長15年8月不残開基、自余不詳。
第24世住職説含、壬申35歳。額田件管轄三河国賀茂郡挙母東町上田善蔵三男、嘉永2年4月8日同所仲町洞泉寺ニ於テ得度、安政2年増上寺へ登山学修、明治2年住職。以上僧一人。
境内、4反5畝歩。檀家270軒。以上
源長寺所蔵の文化財
- 石出掃部亮吉胤墓(区指定記念物)
- 多坂梅里先生追悼碑
源長寺の周辺図