源長寺。関東郡代伊奈半左衛門家墓所
源長寺の概要
浄土宗寺院の源長寺は、周光山勝林院と号します。源長寺は、鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を開山に迎え、関東郡代伊奈半左衛門忠次が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として元和4年(1618)に創建したといいます。同院寺号を持ち、関東郡代伊奈半左衛門忠次を開基とする千住源長寺が足立区にあります。
山号 | 周光山 |
---|---|
院号 | 勝林院 |
寺号 | 源長寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 川口市赤山1285 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
源長寺の縁起
源長寺は、鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を開山に迎え、関東郡代伊奈半左衛門忠次が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として元和4年(1618)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による源長寺の縁起
(赤山附持添新田)源長寺
浄土宗、京都智恩院の末、周光山と號す、本尊弥陀を安す、相傳ふ當寺は伊奈半十郎忠治元和四年赤山領七千石を賜はりし頃、日誉源貞に託して古刹の廃せしを再興して一寺となし、父備前守忠次及び己が母の法諡によりて、周光山源長寺と名づけしと云、されど日誉を開山とせず、鴻巣勝願寺二世不残和尚を請待して開山とせり、此僧は元和三年九月三日寂せり、又日誉源貞は則忠治が弟にして、俗称を縫殿介忠武と號す、病によりて出家し當寺に住して後勝願寺に移轉し又知恩院に住職し承応元年七月十九日かの地に寂せり、されば當寺初めは勝願寺の末なりしが、後今の如く知恩院の末となれり。元より忠治己が家の葬地に開きし寺なれば、寛永十三年三十石の寺領を寄附し、又後承応元年寺領の地に添ひし地を開発して附せしかば、総て寺領四十七石となれり、右近将監が知行上りし時、當寺へは改て十一石の除地を賜はり其餘は皆御料所なり。
鐘楼
享保十九年にえりし鐘をかく、其銘に元和年中伊奈忠治が開きし佛刹なる由を載たり。
神明社(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による源長寺の縁起
當、源長寺は関東郡代伊奈半左衛門忠次が居城に近い赤山の地にあった古寺を再興して伊奈家の菩提寺として創建し、両親の法名から周光山勝林院源長寺と寺号を定め、両親の菩提寺である鴻巣勝願寺の惣蓮社円譽不残上人を特請し、開山として迎えた。ときに元和4年(1618)であった。
二代住職、玉蓮社日譽源底上人は忠次の次男で寺運の伸展と興隆につとめた。寄進をうけた50石の広大な寺領の外に寺域を整え諸堂をたて寺観を一新して江戸初期から中期にかけて武蔵国では高い格式を誇る寺とし、近隣に数ヶ寺の末寺を持ち、木曽呂の阿弥陀堂もその一つであった。源底は後に迎えられて壇林勝願寺の六世となり、さらには鎌倉の大本山光明寺三十八世の座に就き、遂には京都の知恩院に晋董した高僧であった。しかし、広大な寺領をもち権勢を誇り続けてきた源長寺にも漸く濃い翳りが出始めた。大檀那・伊奈氏の十代忠尊のときに失意の退陣を余儀なくされ、代々の所領は没収され赤山の館は解体を強いられて伊奈氏の経済的失調が決定的となった。
この頃から源長寺の斜陽化衰退は始まった。中興源底の建てた諸堂にも朽廃が目立ち営繕の期を迎えても伊奈氏の経済不如意から放任され、大伽藍の維持に困難を生じ段階的に規模を縮小して難局を越えてきた。そのころ、寺運を回復する器量の住職おらず苦境は深刻化した。江戸中期以降明治にかけて源長寺は重大な時期を迎えたときに二十一世忻譽大念は寺外で没した(明治18年)。この頃、鐘楼堂をはじめ寺宝の多くを失い、加えて多くの離檀者があって窮状は加速して源長寺の暗黒時代となった。広大な寺領も一部の者に次第に蚕食され、境内に隣接した土地を残して多くの寺領を失ってしまった。僅かに残った二町歩余の農地も終戦後の農地解放の政令に従いすべてを手放し、境内墓地の寺域約一町歩(1ha)が残ったに過ぎなかった。
この未曾有の難局に陥っても本尊仏に異常がなかったことは洵に幸いであった。當山に安置する阿弥陀如来は秩父より招来された火難除けの仏様と伝承があり、相好円満の温顔、均整の取れた藤原期定朝様式を忠実に受け継いだ作品と鑑定され、先の伊奈家の頌徳碑(昭和48年指定)に続いて市文化財としての指定(昭和53年)をうけたことはあり難いことであった。
現住廣譽定海、仏縁をもって昭和13年(1938)二十四代の法灯を継いでも当時は十数戸の檀家、正に少祿微檀。僅かに残った茅葺き一棟も十坪余に過ぎず、寺としての外観体裁はなく、辛うじて雨露を凌ぐのみで廣譽が常駐して本尊に給仕するには大きな決意が求められた。廣譽は土地の古老に伝承を聞き古書から盛時を偲びつつ教壇生活を続けて密かに時機の到来を待った。
昭和47年退職入寺した廣譽は寺運の再興、伽藍の再建を発願決意した。荒蕪地同然の寺域を墓地として造成分譲し広く有縁の檀越を募り大方の効力を得ることを方策として樹てる。幸いにして機運円熟し仏天の加護をうけて着工し、父祖以来の宿願、本堂、庫裡の新築、境内の植栽整備も同時に進行して昭和63年(1988)5月15日全檀信徒参集して浄土宗三上人の遠忌正当の記念法要に併せ落慶のおつとめが盛大に厳修され住職廣譽の生涯の大吉祥日となり、永年の悲願成就を泉下の諸霊に慶びの報告をした。(境内掲示より)
源長寺所蔵の文化財
- 源長寺の阿弥陀如来坐像(川口市指定文化財)
- 伊奈家頌徳碑(川口市指定文化財)
源長寺の阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来とは、無量光如来(無限の光をもつもの)、無量寿如来(無限の寿命をもつもの)とも言われています。また、阿弥陀如来は一切の衆生救済のために王位を捨てて出家し、人々を救い浄土に往生させたいと48の誓願をたて、長い間修行の後、西方極楽浄土の救主となった報身仏と説かれています。
当寺の本尊である阿弥陀如来坐像は、温顔で体躯は丸みを帯び、江戸時代初期の作品と考えられます。様式的には、藤原期に盛行した定朝様式が忠実に表現されています。木造寄木造で、法量は像高88.5cm、肘張り72.0cm、光背高142.0cmを測ります。
像の背面には「聖蓮社囧誉廬含和尚」の朱字銘が記され囧誉廬含は源長寺六世天囧の弟子で、寛文13年(1673)5月5日に僅か21歳の若狭で入寂しています。また、この銘には、彼の菩提を弔うために30両が寄進され、これを基にして本尊と光背が再興されたことが記されています。廬含に関する詳しいことは不明ですが、源長寺を再興した関東郡代伊奈氏の一族であろうと推測されています。(川口市教育委員会掲示より)
源長寺の周辺図