千龍山慈眼寺|荒川辺八十八ヶ所、荒綾八十八ヶ所
慈眼寺の概要
新義真言宗寺院の慈眼寺は、千龍山妙智院と号します。慈眼寺は、行覚上人が関東巡錫の時の正和3年(1314)に創建したといいます。荒川辺八十八ヶ所霊場44番札所、荒綾八十八ヶ所霊場57番札所です。
山号 | 千龍山 |
---|---|
院号 | 妙智院 |
寺号 | 慈眼寺 |
住所 | 足立区千住1-2-9 |
本尊 | 聖観世音菩薩 |
宗派 | 新義真言宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 荒川辺八十八ヶ所霊場44番札所、荒綾八十八ヶ所霊場57番札所 |
慈眼寺の縁起
慈眼寺は、行覚上人が関東巡錫の時の正和3年(1314)に創建したといいます。
足立区教育委員会掲示による慈眼寺の縁起
本寺は、正和3年(1314)2月、行覚上人が関東巡錫の時に創建されたという。
三代将軍徳川家光の時、聖観世音菩薩像(弘法大師作と伝う)を安置し本尊とした。
以来、将軍が日光東照宮社参の際の休憩所となり、または江戸城北方鎮護の寺として、葵の寺紋を許された寺院であった。
当寺は、千住宿場の問屋場に近いため、文人墨客の出入りが多く、俳画家建部巣兆と住職との親交はことのほか厚く、「巣兆寺」と呼ばれるくらいであった。
なお本寺には、両界曼荼羅・宝篋印塔など貴重な文化財がある。(足立区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による慈眼寺の縁起
(千住町ニ町目)(稲荷社)別當慈眼寺
新義真言宗、本木村吉祥院の末なり、千龍山妙智院と號す、本尊弥陀弘法大師の作なり、相傳ふ當寺の境内は、本木村吉祥院の辨天社ありし所にして、後かの地へ移せし跡へ當寺を造立せりと云のみにて、年代を知らず。(新編武蔵風土記稿より)
足立風土記資料寺院明細による慈眼寺の縁起
小本寺吉祥院末 東京府管轄武州足立郡千住宿北組 千龍山 慈眼寺
創立年暦不詳、源栄開山。
第23世住職快如、壬申20歳。埼玉県管轄武州足立郡赤柴邑農池田市郎兵衛三男、安政6年7月同管轄同州千住宿慈眼寺ニ於テ得度、慶応3年入寺、同管轄同州同郡本木邑瑞応寺ヨリ移転、和州城上郡初瀬本山小池坊留学11ヶ年。
前住隠居了如、壬申49歳。新治県管轄下総国香取郡篠原邑農大埼仁兵衛二男、天保3年3月3日東京府管轄武州西新井大師総持寺於テ得度、天保5年3月21日同管轄同州同郡栗原邑満願寺ヨリ入寺、弘化3年7月10日同州同郡千住宿慈眼寺ヘ移転、嘉永5年正月23日迄住職、同年2月隠居。
当住弟子快俊、壬申14歳。新治県管轄下総国香取郡扇島村農椎名惣兵衛三男、明治元年11月10日同州同郡千住宿北組慈眼寺於テ得度。以上僧三人。
境内、但除地、3反6畝4歩。檀家105軒。門末庵室等無之。
慈眼寺の周辺図