中臺山光円寺|文京区小石川にある浄土宗寺院
光円寺の概要
浄土宗寺院の光円寺は、中臺山医王院と号します。光円寺の創建年代等は不詳ながら、天平十三年(741)行基菩薩が当地に堂宇を建立し、薬師如来を自刻して安置、堂前に一公孫樹を植えたのが創始だといいます。その後、応永年間(1394-1427)に伝通院開山了誉上人が浄土宗に改め中興開山したといいます。
山号 | 中臺山 |
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院号 | 医王院 |
寺号 | 光円寺 |
住所 | 文京区小石川4-12-8 |
本尊 | - |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 明照幼稚園併設 |
光円寺の縁起
光円寺の創建年代等は不詳ながら、天平十三年(741)行基菩薩が当地に堂宇を建立し、薬師如来を自刻して安置、堂前に一公孫樹を植えたのが創始だといいます。その後、応永年間(1394-1427)に伝通院開山了誉上人が浄土宗に改め中興開山したといいます。
「小石川區史」による光円寺の縁起
中臺山醫王院光圓寺。浄土宗鎮西派、増上寺末。本尊は阿彌陀如来である。當寺の開創年代は不明であるが、『文政書上』に記する所によれば、天平十三年行基菩薩東國巡錫の砌此處に一宇を建立し、薬師如来を自刻して安置し、堂前に一公孫樹を植ゑたのが當寺の創めであると云ふ。其後真言宗となり、中世には一時甚だ衰微したが、應永年中傳通院開山了譽上人の中興に因つて復活し、爾来浄土宗となつた。文政時代には境内三千坪あり、本堂には薬師如来を本尊とし、別に江戸六阿彌陀の一と稱せられる阿彌陀如来を新本尊として其背後に勧請した。又境内には弘安十年の年號ある青石の古碑があつたと記されてゐる。現今は傳行基作の薬師如来は薬師堂の本尊とされ、阿彌陀尊のみが本堂におはします。行基の手植と傳へられる公孫樹は今も境内に存し、周圍二丈八尺、高さ八丈五尺、樹齢約一千年の推定され、根幹は頑強に枝は太く分れて屹立し、堂々と四圍を壓してゐる。市内では麻布善福寺の公孫樹と並び稱せられる二大公孫樹として、文部大臣指定の天然記念物である。尚ほ當寺には狂歌堂眞顔の墓があり、別に明昭幼稚園、明昭子供會等の事業が行はれてゐる。。(「小石川區史」より)
御府内寺社備考による光円寺の縁起
芝増上寺末、小石川久保町
中臺山医王院光円寺、境内三千坪内二反二畝廿九歩傳通院領年貢地
起立之儀相知不申候得共元禄六酉年二月書上よると天平十三年行基菩薩起立し候其後(中略)傳通院開山了誉上人中興当寺開山而浄土宗と相成申候。
開山行基菩薩天平二十に年二月二日寂。
中興開山了誉上人応永廿七年九月廿七日寂。
本堂六間半七間半。本尊薬師如来木立像丈七寸五分行基作六阿弥陀元本元ハ堂ニ有之候。(中略)十二神木立像丈一尺五寸行基作。善導大師、円光大師。熊野権現、丈五寸二分坐像行基作。大黒天、丈七寸二分行基作。地蔵六対、今ハ三体有之元別堂有之候、当時本堂ニ安置。韋駄天。焔魔王、坐像丈一尺三寸二分行基作。阿弥陀如来、信本尊ト唱丈二尺五寸恵心僧都作。本堂薬師如来有候安永年中傳通院ヨリ寄附。開山行基自作像丈一尺五寸。中興了誉上人座像、丈同。
観音堂、間口四間三尺奥行三間。子安観世音、立像行基作丈二尺五寸。
地蔵堂、間口四尺奥行六尺。地蔵尊、石立像丈一尺二寸。(御府内寺社備考より)
光円寺所蔵の文化財
- 鹿都部真顔の墓
鹿都部真顔の墓
鹿都部真顔(宝暦2年1752-文政12年1829)は、江戸時代の狂歌師。江戸の生まれ。本名は北川嘉兵衛、狂歌は別号。
狂歌を太田南畝に学び、同門の宿屋飯盛とともに狂歌界で活躍した。寛政の改革(天明7年1787-寛政5年1793)後、太田南畝の院泰や宿屋飯盛の江戸払いなどによって名実ともに江戸の狂歌界の中心人物となった。のち、飯盛の復帰により両者は狂歌界を二分することになる。
真顔は文化年間(1804-1818)中頃から高尚優美な狂歌を主張し、従来の狂歌に対する「俳諧歌」と称する運動を起こした。
かすていらかすむ夕べは杉折の杉間の月もおぼろ饅頭 鹿都部真顔作(文京区教育委員会掲示より)
光円寺の周辺図
参考資料
- 「小石川區史」
- 御府内寺社備考