寶蔵寺|我孫子市久寺家にある真言宗豊山派寺院
寶蔵寺の概要
我孫子市久寺家にある真言宗豊山派寺院の寶蔵寺は、明王山と号します。寶蔵寺は、元和3年(1617)に創建、宝暦3年(1753)に大谷口大勝院末から龍泉寺末へ法流を改めたといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所84番です。
山号 | 明王山 |
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院号 | - |
寺号 | 寶蔵寺 |
住所 | 我孫子市久寺家401 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寶蔵寺の縁起
寶蔵寺は、元和3年(1617)に創建、宝暦3年(1753)に大谷口大勝院から龍泉寺末へ法流を改めたといいます。
「我孫子市史」による寶蔵寺の縁起
寺伝に元和三年(一六一七)創建という。半鍾の銘によれば、享保十四年(一七二九)につくった鐘が大破して宝暦三年(一七五三)につくりなおされたことと、そのときの住持は法流開山秀典であること、庚申講中二十七人の寄進によるものであることなどが知られる。
寺地は、台地の突端に位置する久寺家城二之郭址に相当し、周辺に土塁の痕跡がある。この城は小金大谷口城主の支配下にあったといわれており、寺はもと大谷口大勝院の末寺であった。半鍾銘に「宝暦三癸酉年(一七五三)法流開山秀典代」とあるのは、その頃法流を改めて龍泉寺末となったということではあるまいか。やがて天明三年(一七八三)に新末新色衣に格上げの許可も得た。
相場霊場の設立に当っては、当寺の地形が屋島に似ているということで、第八十四番讃岐国屋島寺移しとされた。
明治の「寺院明細帳」には「本堂間数間口七間奥行五間三尺」とある。それは旧本堂で、大正八年に改築されて「本堂間口五間奥行五間四尺向拝間口二間奥行九尺」となったことが同帳に付記されており、修築をへて現在に至っている。
明治十四年に住職窪現阿和照尚は紀伊高野山の猪岳大僧正とはかり、金剛峯寺にあった弘法大師像を当寺に乞い求めた。そして、それを関東における六十二番厄除大師として信仰をさかんにした。その事情は本堂前にたっている弘法大師千五十回忌報恩塔に「抑も当寺密場ぶ安置し奉る弘法大師ハ高野山金剛峯寺附属の霊像なりけるを多年の宿願により附与せられ明治十四年五月廿一日を以て尊体を当山に迎ひ奉れるものなり」と記されている。
また、昭和五十二年の「書院庫裡再建落慶供養願文」によれば、本堂は以前神田今文森和吉の外護によって建立されたが、二十七世勧学大僧正櫛田良洪代には書院庫裡が朽損し、戦後の農地開放によって寺の維持管理も困難になっていた。その当時大勝院にいた長嗣良勝僧都は宝蔵寺をつぐことを決意して、再建に奔走し、落慶をみるとともに二十八世となったという。
本堂は、広い外陣部分の奥左右脇の間に床と脇檀を設け、内陣部分が凸形に接続しており、外陣部分の正側三面に廊下がある。入母屋造、瓦葺で、入母屋屋根の妻を正面とし、その前に唐破風の向拝を構えているので、大棟の棟瓦、妻の懸魚、虹梁と向拝の唐破風が重なって印象的である。
内陣の仏壇には、中央に本尊を安置した宮殿厨子、その左右に、大日如来像と阿弥陀如来像が拝される。
本尊は、片方の脚を踏み下げた姿の延命地蔵で、落慶供養願文に「この久寺家の地に本尊地蔵菩薩水田より出現し給い」と述べられた伝承がある。
梵鐘は、昭和四十九年五月五日の新鋳で「幸運の鐘」と称し、鍾楼も建てられた。
籠堂は、昭和六十三年に改築された。入母屋造、向拝付、瓦葺で、内部は板敷とし、奥壁の左右に脇壇が備えられており、中央の部分は格子戸になっていて、この堂の後方に建つ大師堂が堂内から拝される。
大師堂は、入母屋造、向拝付、瓦葺で、籠堂の後方の小高いところ(土塁)に建っている。右側の壁にかけた板額は風雨にさらされて絵図がほとんど消えているが、「布佐」の文字や社寺の建物がかすかに見え、利根川沿岸の景観が描かれたもののようである。なお、堂内の石造大師像の台石には「文化四卯、四月、惣村、世話人、細井忠右□□」と刻まれている。(「我孫子市史」より)
寶蔵寺の周辺図
参考資料
- 我孫子市史