猫の足あとによる千葉県寺社案内

大勝院|松戸市大谷口にある真言宗豊山派寺院

大勝院の概要

真言宗豊山派寺院の大勝院は、遠矢山普門寺と号します。大勝院は永正3年(1506)の創建とされ、かつては根木内域の祈願寺として柏市光ヶ丘付近にあったものを、高城下野守胤吉・胤辰が根木内城から小金城へ享禄3年(1530)に移転する際、当寺も城中の鬼門にあたる三の丸内に移転、天文6年(1537)に護持僧榮秀法印が開山したといいます。天正18年(1590)の小田原北条攻めに際して、小金城は落城、大勝院も焼失してしまったものの、江戸期には門末四十余ヶ寺を擁する本寺格の寺院でした。下総三十三ヶ所観音霊場16番です。

大勝院
大勝院の概要
山号 遠矢山
院号 大勝院
寺号 普門寺
住所 松戸市大谷口145
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 -
備考 大勝院幼稚園



大勝院の縁起

大勝院は永正3年(1506)の創建とされ、かつては根木内域の祈願寺として柏市光ヶ丘付近にあったものを、高城下野守胤吉・胤辰が根木内城から大谷口城へ享禄3年(1530)に移転する際、当寺も城中の鬼門にあたる三の丸内に移転、天文6年(1537)に護持僧榮秀法印が開山したといいます。天正18年(1590)の小田原北条攻めに際して、大谷口城は落城、大勝院も焼失してしまったものの、江戸期には門末四十余ヶ寺を擁する本寺格の寺院でした。

「千葉縣東葛飾郡誌」による大勝院の縁起

大勝院
大谷口城址内にありて、遠矢山と號す、眞言宗新義派にして、流山町東福寺末寺、小本寺なり、永正三年の創立蝉口不動尊を本尊とし高城氏の歸依殊に厚く、胤吉の爲めに、魔軍の矢を遠ざけ、大勝利を得たり、因て遠矢山大勝院と號すと、大谷口城成るに及び、根木内より、同城の鬼門に遷し、常に武運長久、諸士安穏を修せりめたり、土村根木内に今尚ほ大勝院山なる小字を存す。(「千葉縣東葛飾郡誌」より)

境内掲示による大勝院の縁起

この寺は古く、根木内域の祈願寺として現在の柏市光ヶ丘付近にあった。享禄三年(1530)、高城下野守胤吉、胤辰は根木内城が手狭になったことから、江戸川氾濫源に屹り立った高台の地の利を得た下総国小金領大谷口村のこの地に自然の谷を利用しながら深濠、土塁を築き上げて移転し十余万坪の城郭を完功させた。城中には諸士の住居、城外、殿平賀には勇荘なる家臣館を構えたり、横須賀の平地には下級家臣を配し、南方馬橋には出城を築き威風自ら四となりを圧し、城中の鬼門に安じた三ノ丸に大勝院も移転させ、天文六年九月(1537後奈良天皇御治世)護持僧榮秀法印によって開山されたのである。以後大谷口城主高城一族の祈願寺として大勝院蝉口不動尊に日夜将兵、家臣の武運長久を祈願することから遠矢山大勝院という全国唯一の珍しい寺名が付けられた。爾来、高城氏は勢力を得て北条氏の他国衆として武蔵下総を指揮し遠く神奈川県綾瀬の地にも威風を轟かすのであるが、北条、豊臣両氏の反目に及んで小田原城に敗れ捕われたのである。そして大谷口城も天正十八年五月十八日(1590)浅野長政の軍門に焼亡し大勝院も焼失したのである。徳川氏の時代には寺運を十分に復旧することはできなかった。
近世になって鰭ヶ崎東福寺末に加えられる様になってからは寺運の良きを得て本寺格となり、高城氏領内の門末寺四十余ヶ寺を擁してその頂点に立ったのであるが、やがて末寺の多くは事情により廃寺、あるいは合寺して現在は松戸市内等に十六ヶ寺(松戸市宝光院・大乗院・吉祥寺・正福寺・医王寺・長聖寺・正真寺・中根寺・華厳寺・流山市宝蔵院・慈眼寺・柏市宗寿寺・我孫子市東陽寺延寿院普門院・沼南町如意寺)を旧門末寺として現存し、九ヶ寺(東光院・正光院・泉蔵院・金蔵院・清蔵院・宝性院・密乗院・不動院・勝蔵院)は大勝院に合寺したのである。また、小金八坂神社の別当寺清蔵院の本寺であるということから、事情により徳川氏の命を受けて、同社の御神体を護持管理し、山内の別社に奉安すること今日まで及んだのであるが、昭和四十八年七月同社が北小金駅付近の旧境内から、現在地に移転し改築した事を記念に、十年後の昭和五十七年十月、当山第三十八世良豊によって小金八坂神社に遷宮鎮座させたのである。
大勝院は古くから新義真言宗の教学の道場として多くの学問僧を育成し学山として法脈を保ち当時の論草等は総本山長谷寺宝蔵に今なほ残存している。当山三十一世義海大僧正は、後に東京護国寺貫主となり、豊山中学(現、日大豊山高校)を創設し、豊山派管長、長谷寺化主に就いた。第三十三世與澄大僧正は松戸宝光院を経て目白不動金乗院住職となり、学僧として新義真言宗の事相学を確立させた。第三十六世諦禅僧正は、明治、大正にかけて、大勝院塾を設けて地域子弟の教育にあたった。
更に三十七世良洪大僧正も宗門の最高位である勧学位の学僧として活躍し立正大学々長として、あるいは松戸市教育委員長などをつとめ教育界に尽力し大勝院幼稚園も創設したのである。このように当山は多くの高僧を輩出させた。
昭和の戦乱後は広大な寺領のほとんどが農地解放政策によって失ってしまったのであるが、檀徒の協力によって約二十ヶ年を経て諸堂、境内の整備が昭和五十五年完了した。しかし翌昭和五十六年十月、暴徒によって放火、本堂、大書院等が焼失してしまったのである。大檀越大倉邦夫氏ら、旧家檀信徒はこれに屈することなく浄財を再び寄せて昭和五十八年八月全てを復興完成させたのである。
大谷口城は廃城と化した後も土塁深濠延々と現存し時の様々な推移にも著しき変遷を見ずに三百七十年余の永き年月を続けたのであるが、昭和三十七年、ついに地域開発の時運に抗し難くして、中世大谷口城郭の遺構の殆んどを東急不動産株式会社の手によって破壊されてしまい、今はわずかに当時の面影を残すのは、当城祈願寺であった大勝院周囲の遠矢山だけとなってしまったのである。(境内掲示より)


大勝院の周辺図