圓福寺|我孫子市柴崎にある真言宗豊山派寺院
圓福寺の概要
我孫子市柴崎にある真言宗豊山派寺院の圓福寺は、羽黒山と号します。圓福寺は、過去帳に元和2年(1616)の書入れにより、江戸時代初期の創建ではないかといい、柴崎神社(羽黒妙見社)の別当だったといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所55番です。
山号 | 羽黒山 |
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院号 | - |
寺号 | 圓福寺 |
住所 | 我孫子市柴崎172-1 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
圓福寺の縁起
圓福寺は、過去帳に元和2年(1616)の書入れにより、江戸時代初期の創建ではないかといい、柴崎神社(羽黒妙見社)の別当だったといいます。
「我孫子市史」による圓福寺の縁起
円福寺 柴崎一七二
山号羽黒山 真言宗豊山派 もと龍泉寺末
過去帳に元和二年(一六一六)の書入れがあって、江戸時代初期の草創と考えられる。同じく過去帳書入れによれば「当寺領卓享元甲子年(一六八四)三月廿五日地頭新見忠右衛門殿為浄閑公御墓領蛇塚ニ而新田壱反四畝拾八歩御寄其後替地字大久保ニ相成」、元禄三年(一六九〇)十月「只今ノ処へ寺建立」とある。すなわち、寺地は柴崎神社に隣接し、柴崎村鎮守羽黒妙見社の別当寺であった。
安永四年(一七七五)の相馬霊場創設にあたっては第五十五番予州光明寺写し、本尊阿弥陀如来となり、文化四年(一八〇七)には大師堂も建立されたが、文化八年に本堂と庫裡が罹災した。それが再建されたのは同十三年のことである。やがて、天保十年(一八三九)には懸案であった新末新色衣の格上げが実現し、安政六年(一八五九)に堂宇を修築することになり、文久三年(一八六三)に「五七之本堂」の完成をみた。明治の「寺院明細帳」に「本堂間口七間 奥行五間」とあるのがそれである。
明治年代には、三十五年九月二十八日に暴風のため本堂が倒壊、同三十八年に再建をみたのであるが、その建物は檀家寄進の材木と労役奉仕による農家風の四注造、茅葺で、切妻瓦葺の玄関がついていた。
それが年を経て朽損著しい状態となっていたのであるが、昭和六十二年に改新築されて現在に至っている。
本堂は、宝形造、向拝付、銅板葺である。内部は六室で、中央奥の仏間大壇を備えている。大壇は某寺から譲渡されたやや古いもので、四周側面に反花と受花の二重蓮弁形をめぐらしたいわゆる花形壇である。
なお、堂内に文久三年建立の旧堂にあった川村磯右衛門施入の彫刻欄間二枚が保存されている。(「我孫子市史」より)
圓福寺の周辺図
参考資料
- 我孫子市史