本満寺|千葉市中央区生実町にある顕本法華宗寺院
本満寺の概要
顕本法華宗寺院の本満寺は、宝珠山と号します。本満寺は、本行寺を開山した日泰上人が開基となり、文明5年(1474)4月に創建したといいます。江戸時代には不受不施派寺請禁止令により衰亡したものの第14世日諌が再興、數ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。
山号 | 宝珠山 |
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院号 | - |
寺号 | 本満寺 |
住所 | 千葉市中央区生実町1743 |
宗派 | 顕本法華宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
本満寺の縁起
本満寺は、本行寺を開山した日泰上人が開基となり、文明5年(1474)4月に創建したといいます。江戸時代には不受不施派寺請禁止令により衰亡したものの第14世日諌が再興、數ヶ寺の末寺を擁する中本寺格の寺院だったといいます。
「千葉縣千葉郡誌」による本満寺の縁起
本満寺
北生實區にあり。顕本法華宗にして京都愛宕郡妙塔山妙満寺の末寺なり。本派五山の一にして中、本寺、末寺六ヶ寺あり寺傳にいふ。門流開基二位僧都日什十六代の法孫大僧都円頓坊日泰文明五年四月當地を創建し、當時上下兩総に於て大に法鼓を撃ち宗義を弘通し、修學の僧侶雲の如く来會し徳を慕ふの信徒衆生星の北辰に向ふが如く皈向す。數十戸の寺塔伽藍を建立す。是を七里妙法華弘通の大導師と稱す。其後日泰京大本山妙満寺の法燈を紹繼し輪番住職満期の後再ひ上下兩総に来り宗義を弘通す、時に文明五年四月始めて當山を創立し檀徒千有余戸に及べり。時に永正三年正月十九日同村本行寺に於て壽七十三才にて入寂す。其の後八代の住職由性院日清正徳年間禁制の異流を行ひ徳川柳營より流刑に處せられ又十二代の住職連鐘院日宏享保年間又異流を行ひ禁制を犯すの罪科に依って幕府徳川氏より追放申し付られ此の時檀徒悉く離散し伽藍大に衰毀し既に廃寺に至らんとす。時に十三代の住職如寳院日勝視力を盡して宗義を拡張し、伽藍再興の志を励まし、檀徒篠崎三左衛門、同孫七左衛門外八名の信徒志を合せ遂に伽藍を再興す。自爾巳降連綿相續し京都大本山妙満寺輪番住職相勤め歴代の住職或は権律師より大僧正に任官之れあり色衣着用せり。堂宇間口五間奥行六間庫裡間口十六間奥行六間、鐘楼堂方三間、境内千二百六十坪あり。尚境内に三堂あり即ち朝日堂、鬼子母堂、乗池院堂之なり。之に境外所有地一町九反六畝二十五歩を有す。
寺寳には日蓮上人筆「十界勧請曼荼羅」紙地一幅、日什筆「十界勧請曼荼羅」日泰筆「子安曼荼羅」等あり。(「千葉縣千葉郡誌」より)
「稿本千葉縣誌」による本満寺の縁起
同郡(千葉郡)生實濱野村大字北生實字横須賀に在り、境内千二百六十坪、日蓮宗妙満寺の末派にして中本寺たり。寺傳に云ふ、文明八年四月本郡濱野村本行寺日泰の創建せし所なりと。(「稿本千葉縣誌」より)
千葉市教育委員会掲示による本満寺の縁起
宝珠山本満寺
当寺は字横須賀にあり、文明5年(1474)4月に浜野町の本行寺を開いた日泰上人が開基したもので京都の妙塔山本満寺の末寺で顕本法華宗に属しています。
寺は第8世日清、12世日宏等と数世にわたり江戸幕府の禁ずる宗教活動に関わったため、幕府より弾圧され一時存亡の危機にありましたが、後任の日勝と檀家篠崎氏の死をかけての請願により存続が許されました。その後享保17年(1732)第14世日諌が現本堂を再建することになると、寺勢も興隆するようになりました。
現在、境内には本堂、庫裡、鐘楼等がありますが、明治以前には蓮如坊・台応坊の2塔頭があったと伝え、明治時代には乗池院、鬼子母神堂、閑居所があったといわれています。
寺には日蓮筆の「十界勧請曼荼羅」、日什筆「十界曼荼羅」、日泰筆「子安曼荼羅」が大切に所蔵されています。(千葉市教育委員会掲示より)
本満寺の周辺図