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本行寺|千葉市中央区浜野町にある顕本法華宗寺院

本行寺の概要

顕本法華宗寺院の本行寺は、如意山と号します。本行寺は、日泰上人が濱野の東方に文明元年(1469)創建、帰依した土気城主酒井定隆が宏壮な伽藍を建て、領地七里四方を法華宗に改宗した(七里法華の根本霊場)としたといいます。天正18年(1590)戦火に遭い焼失、当地へ移転、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する中本寺の寺院だったといいます。

本行寺
本行寺の概要
山号 如意山
院号 -
寺号 本行寺
住所 千葉市中央区浜野町1252
宗派 顕本法華宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本行寺の縁起

本行寺は、日泰上人が濱野の東方に文明元年(1469)創建、帰依した土気城主酒井定隆が宏壮な伽藍を建て、領地七里四方を法華宗に改宗した(七里法華の根本霊場)としたといいます。天正18年(1590)戦火に遭い焼失、当地へ移転、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺を擁する中本寺の寺院だったといいます。

「千葉市史」による本行寺の縁起

本行寺
如意山本行寺は顕本法華宗に属し、京都妙満寺の末寺である。当寺は文明元年(一四六九)浜野郷高縄にあった一廃寺を再興し、日泰上人が堂宇を建立したのに由来している。
日泰上人は円頓房心了と号し、本行寺のほかに数十の寺院を開基、改宗し、上総、下総に法華宗(日蓮宗)を広めたといわれる。士気町の本寿寺生実町の本満寺遍田町の妙本寺中野町の本城寺、上泉町の宝泉寺は日泰上人の開基である。上人は士気城主酒井小太郎定隆の帰依を受け、定隆は長享二年(一四八八)領内のすべての寺院に対し、日蓮法華宗に改宗することを命じている。いわゆる、「七里法華」であるが、当寺は七里法華の開山根本寺といえよう。
豊臣秀吉は小田原に北条氏を攻め滅ぼすが、土気酒井家は北条氏に従ったため、秀吉の家臣浅野長政は酒井家を攻撃した。この合戦にまきこまれ、本行寺も遂に炎上したといわれている。天正十九年(一五九一)徳川家康は当寺に朱印地一〇石を寄進している。
当寺は日蓮宗の中の不受不施派に属し、法華経の信者以外の者からは供養を受けず、また、法華経の僧侶以外の者へは財物を与えないことを信条としている。このため、徳川幕府は寛永七年(一六三〇)、寛文五年(一六六五)、元禄四年(一六九一)に不受不施派禁令を出すが、信徒は表向きは他宗をなのり、内面は不受不施派の信仰を守ったといわれる。当時の住職の中にも一〇世日逼のように、不受不施を唱え流刑に処せられた人物がでている。なお、当寺に伝来されている不受不施派関係古文書は市指定の文化財となっている。(「千葉市史」より)

「稿本千葉県誌」による本行寺の縁起

如意山本行寺
同村(千葉郡生實濱野村)大字北濱野字如意山に在り、境内二千二十二坪、日蓮宗妙満寺の末派にして中本寺たり。寺傳に云ふ、文明元年僧日泰の創建せし所なり、天正十九年徳川家康寺領十石を寄す、塔中に一院三坊あり。(「稿本千葉県誌」より)


本行寺所蔵の文化財

  • 不受不施派関係文書(千葉市指定文化財)

不受不施派関係文書

本行寺は顕本法華宗に属し、文明元年(1469)日泰上人の開基で宗祖奠定の大曼陀を本尊としています。当初浜野村(現浜野町)の東方の「谷」に道場を構えましたが、その後上人の熱意により帰依した土気城主酒井定隆が宏壮な伽藍を建て、いわゆる「七里法華」の根本霊場としました。天正18年(1590)戦国時代末期の戦火にあって焼失し、その後現在地に再建され、朱印地10石、6坊、末寺7、門前地26戸を有する近隣の名刹でしたが、昭和20年(1945)戦災に遭い焼失しました。現在の諸堂はその後順次再建されたものです。
これらの災禍により什宝・書跡等の多くは失われましたがそれを免れた寺宝のうち、北条氏の禁制(元亀2年9月2日付))などの文書や不受不施派関係の書状、日泰上人の本尊など永禄・元亀時代の文書は千葉市の文化財に指定されています。(千葉市教育委員会掲示より)

本行寺の周辺図


参考資料

  • 「千葉市史」
  • 「稿本千葉県史」

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