観明寺|長生郡一宮町一宮にある天台宗寺院

猫の足あとによる千葉県寺社案内

玉崎山観明寺|天台宗上総五山の一、関東百八地蔵霊場

観明寺の概要

天台宗寺院の観明寺は、玉崎山と号します。観明寺は、天平6年(734)に僧行基が開基、その後慈覚大師が中興したと伝えられ、平安時代より明治維新後の神仏分離令まで玉前神社の別当を務めていました。天台宗上総五山の一つに数えられ、数多くの末寺、寺中寺を擁し、江戸時代には寺領12石の御朱印状を受領していたといいます。境内の金毘羅堂は、かつて末寺安養寺境内に祀られていたもので、神仏分離令後に当地へ移したものです。また旧水神山真光寺の茶汲如来や、旧城中山西福寺の阿弥陀如来なども当寺へ移しているといいます。関東百八地蔵霊場75番です。

観明寺
観明寺の概要
山号 玉崎山
院号 -
寺号 観明寺
住所 長生郡一宮町一宮3316
宗派 天台宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -



観明寺の縁起

観明寺は、天平6年(734)に僧行基が開基、その後慈覚大師が中興したと伝えられ、平安時代より明治維新後の神仏分離令まで玉前神社の別当を務めていました。天台宗上総五山の一つに数えられ、数多くの末寺、寺中寺を擁し、江戸時代には寺領12石の御朱印状を受領していたといいます。境内の金毘羅堂は、かつて末寺安養寺境内に祀られていたもので、神仏分離令後に当地へ移したものです。また旧水神山真光寺の茶汲如来や、旧城中山西福寺の阿弥陀如来なども当寺へ移しているといいます。

「一宮町史」による観明寺の縁起

観明寺
市街地西端の字院内にある。古くから格式ある天台宗寺院であった。現在、長南三途台長福寿寺末であるが、徳川時代以降において、しばしば本来関係の移動があった。古文書に記載する本末関係をみると、上野東叡山末・長福寿寺末・延歴寺直末と一定していない。
寺伝によると、天平六戌甲年(七三四年)僧行基の開基・慈覚大師の中興と伝えられ、徳川時代には、御朱印十二石の領地を有し、玉前神社の別当職であった。明治二年の分限書にも、「玉前神社一宇、但神主方仕配仕候。毎年祭例ニハ衆僧立会法要仕候」とあり、平安中期より千年以上にわたって玉前神社別当の地位を築いていたようである。宝永六年(一七〇九年)の由緒記によると「一宮玉崎明神、当寺ノ鎮守トナリ玉ヘル因ヲタズスルニ、仁明天皇ノ御宇嘉祥元年一沙門アリ。敬祟上人ト号ス。奥州口口ヨリ来リテ此ノ処ニ居ス。時ニ当時スデニ仏閣堂塔ヲ創建ストイユドモ、イマダニ鎮祠ヲ請セズ。本迹兼備ト謂フベカラズ。故-ニ里人ハ慊然トシテ意ナオ満タサズ。宗子里人ノ意ヲハカリテ、寄勝ノ神ヲ請シテ以テ鎮宮トナサント欲ス。スナワチ一百日ヲ剋シテ毎日歩ヲ東浪見釣ケ崎ニハコピ、ハルカニ海上ヲナガメ龍神ヲ祈請ス。漸ク百日ニ満ツルノ暁、維時八月十三日明星ノ出ズル時、沙羅龍王第三女、玉依援ト号ス、十二戈処ノ明神トトモニ千尋ノ漠洋ヨリ湧騰シ、波澗ヲ簸揚シテ以テ来現シ玉フ。(中略)神殿ヲ造営シ喜号ヲ敬献シ、モツテ当国一宮玉崎明神トナス。山ヲ龍頭山ト称ス。按ズルニスナワチ其ノ本ヲ表ワスナリ。今ハ改メテ玉崎山ト名ズク。」とある。これは平安時代中期に天台・真言系の教学に基を発した木地垂迹思想によるものと云える。
本堂は、第二次世界大戦中に荒廃して現存しないが九間四面破風づくりの宏大な建築であった。これは中興三十世住職が宝永六年に六十万人講をおこして本堂造営を志し、享保六年(一七二一年)に海岸に漂着した木材を使用して建築したものであった。堂内・欄間には、房州の井上円徹作の地獄極楽図が彫刻されていた。「房総志料続編」には、「欄間彫刻、地獄・畜生左・天道・人道中、内に白衣観音の像一体、修羅・餓鬼右、内に地蔵尊・小児、左の中より左へより閻魔大王、右方隅脱衣婆、火の車の様子、釜の中より血の煮えこぼれるありさま、誠に肝に銘じ、肌寒くなる程恐しく思わる。其余、臼にてつかるるもの、あたまへ釘をうたるるもの、目もあてられぬ次第なり。」とあるように、その写実的な図柄は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の情景をたくみに描写してある。(一部は、経堂内に保存されている。)
境内仏堂としては、金毘羅堂・経堂・本地堂・弁財天堂・大日堂などがある。金毘羅堂は、宮毘羅大将をまつり、一月十日の初金昆羅には、大漁祈願・家内安全・商売繁昌の護摩札を受ける信者や一般の参詣客で賑う。
(中略)
観明寺末寺として現存するものは、町内九ヵ寺のほかに、谷本山海蔵寺(茂原市旧東郷村)・玉明山弘行寺(睦沢村下之郷)があり、併せて十一ヵ寺ある。寛文五年の古文書に、「当寺中門徒十七ヵ寺(中略)為後代之一札」というのがある。これによると、寺中の善知坊・善養坊・西林坊・花蔵坊・一如坊の五坊と、宮原村長福寺・新田原村妙元寺・椎沢宝蔵寺の三ヵ寺の名がみえており、谷本山海蔵寺と玉明山弘行寺は載せられていない。この頃からみると、五坊・三寺が廃絶されていることになる。(「一宮町史」より)


観明寺所蔵の文化財

  • 観明寺四脚門(一宮町指定文化財)
  • 観明寺金毘羅堂(一宮町指定文化財)
  • 水屋(一宮町指定文化財)
  • 地獄極楽欄間

観明寺四脚門

天台宗上総五山の名刹、玉崎山観明寺の四脚門は、江戸初期の建築であろう。四脚門は四足門または山門ともいう。
建築様式は、切妻型、屋根は箱棟である。二軒繁垂木・頭貫虹梁(梁の一種)・妻虹梁で組まれ、銅板葺きであるが、もとは萱葺きであったという。
主柱は、角柱え、蟇股は、四脚門前後に備えられ、升組と共に桁を支えている。正面の蟇股には、沢瀉の家紋が彫られ、背面の蟇股卍・巴の寺社の紋が、表裏に彫られ、神仏混淆の時代を物語っている。
沢瀉紋は堀氏の用いた家紋であり、領主堀外記は、寛文十二年(一六七二)から三十余年、一宮本郷とその周辺の村々を支配していた。延宝n頃、領主の寄進と思われる。大分破損しているが、重量感に富み、現存の建造物では町内最古であろう。(一宮町教育委員会掲示より)

観明寺金毘羅堂

建物の大きさは、正面三間、側面四間、入母屋造り、建立年代は延享五(一七四八)年です。
江戸時代に香川県の金毘羅宮から勧請(神仏の分霊を他の土地に祀ること)され、明治以前は、安養寺境内にありましたが、神仏分離令によって明治十二(一八七九)年に現在地へ移築しました。創建当時は、向拝(礼拝の場所として社寺の正面に張り出した部分)がなく、屋根は茅葺でしたが、明治十三年に向拝がつけられ、瓦葺になりました。
平成六年の修理によって、建立年代を記した墨書が確認され、屋根は茅葺と同じ形に修復、堂内の大部分は建立当時の古い部材を再利用することで、創建当時の面影がよみがえりました。
毎年一月十日は、「初金毘羅」と称して祭りが行われています。(一宮町教育委員会掲示より)

水屋

金比羅堂は、江戸時代中期、町内上宿に住む信者斉藤伝九郎という人が海難守護・大漁祈願のため、四国讃岐の金毘羅大将の分霊を勧請したのに始まる。始めは自宅の神棚に安置して信仰していたが、その後愛宕山安養寺に奉安した。
明治維新前には玉前神社境内に堂があったが神仏混淆の禁止令により現在地に安養寺を移し、仮堂とした。後に明治十二年(一八七)現在のすがたに近い御堂が建築された。階段前に建つ御影石の柱に天保八年(一八三七)の彫刻があり、元来鳥居であったものが横木を取り除いたもので神仏分離を物語る証として興味深い。
平成七年信者の協力により老朽化した御堂を昔の姿そのままに大部分を残して改修された。この時天井から延享五年(一七四八)の墨書が発見されている。正月十日の初金毘羅には大漁祈願、家内安全、商売繁盛の護摩札を受ける信者や参詣人で賑わう。
水屋は安永八年九月(一七七九)の製作で金毘羅堂とともに明治十二年階段下に移転した。四本の柱に彫られた浮き彫りの上がり竜・下り竜は見事であるが、作者は不明である。水屋石の彫刻も精巧なものである。
平成八年御堂の改修後はこの地に移転し、屋根を旧来の瓦葺き入母屋造りから杮葺きに直した。(一宮町教育委員会掲示より)

水屋

房州の彫刻師井上円徹の作と伝えられるこの欄間は、享保三年(一七一八)本堂の再建に際して用いられたという九十九里浜漂着の檜材の厚板に彫られている。本堂の正面に三分割され、中央が縦一メートル、横四、五メートル、左右はそれぞれ縦一メートル、横二、七メートルあり、極彩色の一大彫刻絵図である。
図柄は左に地獄、畜生界を置き、閻魔大王奪衣婆(三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪いとると伝えられる鬼婆、葬頭河の姿)・悪鬼火の車・血の煮えこぼれる釜などが描かれ、中央には天道・人道界を置いて白衣観音などを、右部分には修羅・餓鬼道を置いて、地蔵尊・小児。血の池悪鬼に責められ頭へ釘を打たれる亡者などを描いている。
写実的な図柄によって、地獄・餓鬼・畜生・修羅人・天の六道の情景をたくみに表現している。
昭和四三年、新本堂再建に際して彩色なども修復されている。(観明寺掲示より)

玉崎山観明寺の周辺図


参考資料