鶴峯八幡宮|市原市中高根の神社

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鶴峯八幡宮|市原市中高根の神社

鶴峯八幡宮の概要

鶴峯八幡宮は、市原市中高根にある神社です。鶴峯八幡宮は、大江朝臣妙彌が宇佐八幡宮を勧請して建治3年(1277)に創建したと伝えられます。鶴峯八幡宮と称され、鶴岡八幡宮・房州鶴谷八幡宮と共に関東三鶴と呼ばれ、江戸期には領主久世大和守・阿部駿河守も幕末まで代参を派遣していたといいます。(宗教法人名は八幡神社)

八幡神社
鶴峯八幡宮の概要
社号 八幡神社
祭神 譽田別命、息長姫命、玉依姫命
相殿 天照皇大神、大己貴命、少彦名命、嚴比賣命他三柱
境内社 天満宮、子安宮、弁財社、上総大国魂神社、三峯神社
例祭日 例祭8月、秋祭10月第3日曜日、春祭3月15日
住所 市原市中高根1223
備考 -



鶴峯八幡宮の由緒

鶴峯八幡宮は、大江朝臣妙彌が宇佐八幡宮を勧請して建治3年(1277)に創建したと伝えられます。鶴峯八幡宮と称され、鶴岡八幡宮・房州鶴谷八幡宮と共に関東三鶴と呼ばれ、江戸期には領主久世大和守・阿部駿河守も幕末まで代参を派遣していたといいます。

境内掲示による鶴峯八幡宮の由緒

当社は後宇多帝建治三年(一二七七年)本宮九州宇佐八幡宮の御分霊を戴き、国土安穏・殖産興業・道開き・悪魔退散と郷土発展の為、大江朝臣妙彌が与宇呂宇新八幡宮として勧請、号を米代山鶴峯八幡宮と称して鎮斎されたのが始まりと伝えられております。
以来、近郷近在の氏人の崇敬篤く、特に相州鶴岡八幡宮・房州鶴谷八幡宮、当社を関東三鶴と称し、その一社として信仰を集めてまいりました。
住民の信心はもとより幕政時代下総国関宿城主久世大和守、又旧領主幕府大老阿部駿河守も国土安全発展の祈願所として、幕末まで代参、祈願を籠められました。
この間、社伝の造修理はもとより、神宝財物の寄進がありましたが、度重なる火災の為焼失し、現本殿は江戸末期に建立されました。
大神様の御神徳を崇め、悪因を切り開き招福に導いて下さる産土神として、国の鎮めと氏子崇敬者の家内安全・子孫長久・厄災清浄・交通安全・諸難除けの守護神として現在に至って居ります。(境内掲示より)

「市原市史」による鶴峯八幡宮の由緒

八幡神社(中高根)
建治三年(一二七七)豊前国宇佐八幡宮より分祀勧請し鶴峰八幡宮と称す。関宿藩主久世大和守及び旧領主阿部氏等の崇敬篤く慶応三年(一八六七)まで代参が続けられたという。鶴峰八幡のかぐらは県の無形文化財に指定された。手水石(元禄十三年一七〇〇造立)境内は大杉等多く市原市より保全地区に指定されている。(「市原市史」より)

「千葉県神社名鑑」による鶴峯八幡宮の由緒

後宇多帝の建治三年吉日、上総国与宇呂宇新八幡宮を勧請し創建、米代山鶴峰八幡宮と称す。春秋二季の大祭、正五九および五節句等漏るる事なく祭祀を執り行ない、日光寺を別当寺として奉仕した。諸藩主の崇敬特に厚く祈願所となり、久世大和守ら三代にわたり、普請の度毎に多大の金銀は勿論諸々の寄進があり、慶応四年まで代参を遣わされた。また地頭等の尊崇も厚く明治維新まで三代の間続いた。(「千葉県神社名鑑」より)

「市原郡誌」による鶴峯八幡宮の由緒

八幡神社
中高根區字上の根一二二三番地に鎮座し、譽田別命・息長姫命・玉依姫命を祭る、境内は二百二十五坪を有し、境内神社には天照大神社・疱瘡神社・麻疹神社・嚴島神社の四社を祭る、本社は後宇多帝建治三年(皇紀一九三七年)豊前國宇佐八幡宮より勧請鶴峰八幡宮と稱し、國家安康五穀豊作萬民繁栄を祈れり、而して舊藩下總國關宿の城主久世大和守及舊領主安部駿河守等の崇敬篤く、明治維新前即ち慶應三年迄代参あり、或は社殿の修繕或は種々の神器神具の御寄進等屡々ありたり、次で明治維新に當り八幡神社と號し村社に列せらる。(「市原郡誌」より)


鶴峯八幡宮の周辺図