光明寺|市原市池和田にある天台宗寺院

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音信山光明寺|関東百八地蔵霊場

光明寺の概要

市原市池和田にある天台宗寺院の光明寺は、音信山性徳院と号します。光明寺は、聖武天皇勅願の金光明寺の旧跡とも伝えられ、大僧正覺運が永観元年(983)に開基、当初は音信山に建立したといいます。年不詳ながら当地への移転に際して、本尊だった山口木造地蔵菩薩坐像が大きすぎて運べず、山口に置いて移転してきたと伝承されています。江戸期には慶安2年(1649)幕府より寺領15石の御朱印状を受領、南総における天台宗5本寺の一でした。また、関東百八地蔵霊場74番、関東九十一薬師霊場87番です。

光明寺
光明寺の概要
山号 音信山
院号 性徳院
寺号 光明寺
本尊 -
住所 市原市池和田701
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、聖武天皇勅願の金光明寺の旧跡とも伝えられ、大僧正覺運が永観元年(983)に開基、当初は音信山に建立したといいます。年不詳ながら当地への移転に際して、本尊だった山口木造地蔵菩薩坐像が大きすぎて運べず、山口に置いて移転してきたと伝承されています。江戸期には慶安2年(1649)幕府より寺領15石の御朱印状を受領、南総における天台宗5本寺の一でした。

「市原市史」による光明寺の縁起

本尊は阿弥陀如来、創建は聖武天皇の代という。三重山の光明寺を移したとも伝えているが不明である。慶安二年朱印高一五石をうける。安永二年(一七七三)の文書によると境内二町四方とある。山口の地蔵菩薩像は県の有形文化財に指定されているが、光明寺が江戸時代にこの地蔵堂の仏供料として下田一反三畝(永代地)と同じく下田七畝三歩(入会地)とを光明寺から差出しており、地蔵堂の規模も三間半と六間半、戸三六本、障子一七本、畳三四畳等と記されていることからみて光明寺の管理下にあったものとみてよいであろう。昔三重山(音信山)から寺を池和田に移す時に地蔵が大きくて川を越して運ぶに困って山の麓の山口村に置いていったのだと伝えられている。すなわち光明寺の本尊ははじめは地蔵菩薩であったことになる。(「市原市史」より)

「稿本千葉県誌」による光明寺の縁起

音信山性徳院光明寺(市原市池和田701)
同町大字池和田字大塚に在り、境内二千七百四十八坪、天台宗總本山比叡山延暦寺の直末なり。寺傳に云ふ、永觀元年大僧正覺運開基すと。慶安二年八月徳川家光朱印十五石を寄附す。古来の口碑に據れば、本寺は聖武天皇の勅願に係かれる金光明寺の舊跡なりと云ふ、南總五箇本寺の一なり、古書三通を蔵す。(「稿本千葉県誌」より)


光明寺の周辺図


参考資料

  • 「市原市史」
  • 「稿本千葉県誌」